オーパーツとは、考古学上その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難あるいは不可能と考えられたりする、主に出土品を指す用語です。オーパーツはなぜ作られたのか、どうやって作られたのか、当時の技術では制作不可能な為、宇宙人に技術を与えられた説や、超古代文明が存在していたなどの説が存在します。
また、ロストテクノロジーとは、何らかの理由により現代では失われてしまった科学技術のことで、似た言葉にオーバーテクノロジーが挙げられますが、こちらは時代錯誤の工芸品(オーパーツ)を指します(おうまがタイムズ)



2
オーパーツ(OOPARTS)

世界的に有名な動物学者・超常現象研究家の「アイヴァン・サンダーソン」が提案したとされる言葉で、アメリカの作家レニ・ノーバーゲンの著書を通じて広まった。
日本では「時代錯誤遺物」と訳されることもある。
「オーバーテクノロジー」(over technology)という言葉もあるが、これは主に創作の世界で使われる。




5
ロストテクノロジー(Lost Technology)

何らかの理由により現代では失われてしまった、過去に開発されながら後世に伝えられず絶えた技術体系を指す。
ロストテクノロジーが発生する要因は様々あるが、主な理由として、
「後継者が途絶え、技術が失われる」
「環境の変化により、技術が育まれる基盤が消失する」
「別のテクノロジーの発展により、衰退する」といったものが挙げられる。
大小含まれば世界中で様々な技術が途絶え、または新しいものに取って代わられているので、全てを網羅する事は難しい。


6
カテゴリ/ジャンル分け

[1]オーパーツ
[2]オーパーツ(工芸品以外)
[3]ロストテクノロジー
[4]文書・文字・暗号
[5]その他

※このスレにはオーパーツ/ロストテクノロジー以外ものが含まれています


7
コスタリカの真球(Stone spheres of Costa Rica)

1930年代、コスタリカの密林で発見された真球に近い石の球体。
現在までに200個以上発見されている。
素材は花崗閃緑岩が使われており、貝殻石灰岩の石球も少数存在する。
直径1m~2mで、重さ15t~25tほどの石球がよく取り上げられるが、2cm程度の小さなものある。
作成年代・作成目的は不明だが、周辺にあった遺構の年代から、西暦300~800年のディキス石器文化が有力視されている。
肝心の「精度」は、部分によって5cm以上異なる球体もあれば、ミリ単位以下の制度で作られているものもある。
石球の配置には「規則性」があり、星座など天体を模しているという説もあったが、持ち出されたり破壊された事で調査不可能となった。

加工技術としては、加熱と冷却を繰り返して表面を崩していき、叩いて形を整え、最後に磨き上げたと考えられている。
テレビ番組「特命リサーチ200X」では日本の石材加工業者が当時のやり方と思われる方法で作成し、時間さえかければ真球に近い石球を手作業で作れることを実証した。


64
>>7
技術的には可能やったんやろうけど
なんでこんな手間かかるモンを大量に作ったんやろな

あとこの石球って真球に近いのは少なくて
ほとんどのは結構ゆがんどるらしいな


68
>>64
天体の位置説、石職人の練習台説が有名やね
画像検索だと市街に移動された石球が多いけど、森林の中にあるのも多い。あと、記号が刻まれた石球もある。


9
モエラキ・ボルダー(Moeraki boulders)※自然現象

ニュージーランド南島南東部のモエラキ海岸にある奇岩群。
直径1~2メートル程度の球形の岩が多数点在している。
これは、新生代暁新世頃の「ノジュール」(炭酸カルシウムが形成された塊)が、波の浸食作用によって長い年月をかけて露出したものと考えられている。


10
どっかの砂漠の勝手に動く岩って解明されたんやっけ?


13
>>10
セーリング・ストーンズは自然現象やね。解明されてるよ


11
カブレラ・ストーン(Cabrera Stones)

「Ica Stones」(イカの石)とも呼ばれる、
南米・ペルーに住む内科医のハビエル・カブレラが所有する1万5000点以上にわたる石のコレクション。
地元ペルーで川の氾濫が起きた時、半ば砂に埋まっていたのを農民によって発見されたのがカブレラによる収集のきっかけだといわれる。
石には「恐竜と人類が共存するような絵」、「天体観測」や「医学」などの様子が掘られており、
過去に高度な文明が存在していたことを示すとして話題になった。
アンビリバボーで紹介された時は「考古学の常識を根底から覆す大発見」と言われ、
この石が考古学会に認められないのは「自分たちが今まで教えてきたことが根底から覆されることを恐れ、その事実を認めないせいである」とされた。

この石について、発見者の農民バジリオ・ウチュヤは1977年の取材において「自分と妻で作った贋作だ」と告白している。
当然「この告白こそが嘘だ」という反論も出たが、その後の調査で絵の下書きに使われたと思われる鉛筆の跡など、比較的最近に作られたという鑑定結果が出ている。


15
クラークスドープの金属球(Klerksdorp sphere)/南アフリカの金属球

南アフリカの西、トランスヴァール州にある葉蝋石の鉱脈で見つかった金属球。
直径4cmほどで用途不明。これまでに鉱脈の各地で複数個発見されている。
内部が空洞のものと、繊維状のガラスのような物質が詰まったものの2種類があり、外側には球体の中心に平行に走る3本の溝がある。
同国の地質調査によると、この鉱脈が形成されたのは約28億年前という結果が出ており、
そのため「28億年前の金属球」と呼ばれることもある。
しかし、そのまま鉱脈にあったのか、ある時代に紛れこんだのかは不明。
また、この球体は「年に1~2回自転している」事でも知られる。
金属球を展示している博物館の館長によれば、ガラスケースの中にある金属球が近くにある鉱山からの振動によって少しずつ傾くせいだという。


17
ピーリー・レイースの地図(Piri Reis map)

「ピリ・レイスの地図」とも呼ばれる、1929年にトルコで発見された地図。
オスマン帝国の海軍提督ピーリー・レイースが作成した現存する2つの世界地図のうち、1513年に描かれた方を指す。
ベストセラー書籍「神々の指紋」でも取り上げられており、知名度が高いオーパーツの1つ。
地図の南側には当時未発見だったはずの「南極大陸の海岸線」のようなものが書き込まれている。
定説では、南極大陸の発見は1820年頃とされているので、その通りならこの地図は時代錯誤遺物となる。
現在の有力説は、「地図は貴重な羊皮紙を使用していたため、紙の中に収めるために南アメリカ大陸の海岸線を曲げて描いた」というもの。

⇒Francesco Rosselli map(1508年)
⇒Johannes Mauritius map(1590年)

16世紀に描かれたこれらの地図にも南極大陸のようなものが確認出来る。
しかし、実際は「Terra Australis」(南方の大陸)という記述があり、
先人たちが想像していた南にある未知の大陸はオーストラリアだった事が分かる。
そして、「南方の」を指す「オーストラリス」という言葉はオーストラリアの語源となった。


65
>>17,19
こういうクォリティ高い地図系は凄いと思うと同時に
何か少し恐い感じがするんや


19
ヘレフォードの地図(Hereford Mappa Mundi)

1300年頃に作成された、中世ヨーロッパの思想を反映した世界地図。
「マッパ・ムンディ」と呼ばれる中世ヨーロッパで製作された地図で、その中でも現存する最大のもの。
製作年代は14世紀前半で、「ホルディンガムとラフォードのリチャード」という人物の作とされる。
大きさは縦1m60cm×横1m30cm、上質な皮の紙にインクを用いて描かれている。
この地図は3つある祭壇画の中央部分で、左のパネルには大天使ガブリエル、右のパネルには受胎告知があったとされるが現存しはしていない。

地図は東が上になっており、ヨーロッパとアフリカの表示は何故かひっくり返っている。
また、頂点付近の日本にあたるところには「HEAVEN」(天国)と記されているそうだ。
そして、東の果てでは楽園エデンからの追放、最後の審判が描かれている。


20
久しぶりにスプリガン読むンゴ


21
石の世界地図(Ecuador stone map)

南米・エクアドルのラマナで1984年に発見された地図が石に描かれた遺物。
大きさは縦60cm、横40cm、奥行き30cm程度で、どの文明のものかは不明。
この石には南北の回帰線を境とする世界地図が描かれており、
南北アメリカの大陸、ヨーロッパの大陸、アジアの大陸の一部のほかに、3つの未知の陸地の輪郭が刻まれている。
地図が描かれた年代は数千年前~1万年前と見られており、地球を上空から見て描いたような地図になっている。
また、石には目に似た印が2つ嵌め込まれており、
1つは中東・バビロンの辺りに、もう1つは石のあるエクアドルに埋め込まれ、白線で結ばれている。
そのため、古代メソポタミア(中東)とエクアドル(南米)の間に文化的接触があったという推測が存在する。
写真を見ると、比較的新しい石に描かれた落書きのようにも見えるけど…。

メソポタミアと石の目が一致するらしい


22
聖徳太子の地球儀

兵庫県太子町の斑鳩寺に伝わる小さな地球儀。
斑鳩(いかるが)寺は、606年に聖徳太子が推古天皇に法華経を講義した縁で当地に建てられたとされている。
また、江戸時代に目録「常什物帳」が作成され、その中の「地中石」と記載されているものがこの地球儀だといわれており、
少なくともその頃から存在していたと考えられている。
地球儀の表面には南北アメリカ大陸やユーラシア大陸などがレリーフのように描かれていて、
1800年代に発見された南極大陸に相当する大陸や、ムー大陸に相当する部分(フィリピン・インドネシア説あり)にも大陸が描かれている。
科学的な分析の結果、材質は石灰や海藻糊で、漆喰の技法で造られた可能性が高いという結果が出た。

このほか、地球儀の表面には「墨瓦臘泥加」(メガラニカ)という文字が書かれていることも判明した。
メガラニカとは南半球に存在すると考えられていた想像上の大陸であり、 主にマゼランによって有名になったが、
日本では1602年の「坤輿万国全図」がメガラニカを示した最初の地図とされている。
メガラニカの名称が使われていることから、この地球儀は聖徳太子の時代ではなく1602年以降の製作である可能性が高い。
「特命リサーチ200X」では江戸時代の医師・寺島良安が製作したという仮説を紹介している。


23
バシキールの立体地図(Bashkir's Dashkin kamen)

ロシアのバシキール共和国にあるチャンダール村で1999年に発見された石版。
地表から約1m地下にあり、高さ1m50cm、幅1m、重さは約1tだった。
石版は3層の特殊なセメントから生み出されており、3番目の層は白色の磁器だったという。
製造年代は1億2000万年前といわれている(調査方法は不明)。
また、科学的な調査の結果、石版はバシキール地域の立体地図(3D MAP)であることがわかり、
そこには現存しない1万2000mにもおよぶダムのようなものが描かれていた。
バシキール国立大学の教授は、石版の上にあるレリーフが、手作業ではなく機械的に削られたという事も指摘している。
しかし、1億年前となれば機械的作業はおろか、人類の誕生(ヒトの歴史は約200万年)すら迎えておらず、地球外生命体によるものという説も挙げられている。


24
中国の衛星撮影地図

正式には「長沙国南部図」と呼ばれているもので、
中国・湖南省の博物館に収蔵されている縮尺約18万分の1の地図。
2100年前の「馬王堆漢墓」(利蒼と妻子を葬ったといわれる墓)から発見されたといわれる。
馬王堆漢墓は1972年から発掘が開始されたので、発見されたのはその頃と思われる。
地図は長沙国南部を描いたものとされ、幅50cmの帛を2枚つなぎ合わせた約1mの正方形で、縮尺は17~19万分の1。
描写の中心となる部分は非常に精度が高く(河川の屈曲がほぼ現在のものと一致するなど)、
現在の測量技術はもとより、衛星写真で撮影された地図と寸部違わぬ精度で描かれている。
同地図を保管している王世平教授は、この地図の現本は数千年前にあった人口衛星から撮影した写真を元に作成されたと主張している。


25
ブラック・ナイト・サテライト(Black Knight Satellite)

およそ1万3000年前から地球軌道を移動している巨大な衛星(とされるもの)。
「ブラック・ナイト・サテライト」(黒騎士の衛星)と名付けられている。
名付け親は不明。NASAもその存在を認めているそうだ。
ソースとされる記事の1つでは、
「1960年に発見された不可解な起源不明の人工衛星で、スプートニク(Sputnik)を影で覆ったとされ、
天文学者のダンカン・ルナンが解析した短波パターンでは『エプシロン・ボーティス』『或いは1万3000年前の星系』が起源である事を示していた。」と書かれている。
さらに、「アマチュア無線家達が奇妙な暗号化されたメッセージを受信し始め、それが星図と一致しており、星図は13000年前の地球からの描写だった」とされている。
つまり、宇宙的な存在によってもたらされたものである、と語られている(年代測定も旋回周期ではなく別の調査)。
見たところ、冷戦時代の打上げ実験(極秘含む)の残骸とも思えるが、デブリが長い期間地球に程近い空間を漂うことはあるのだろうか。


27
バグダッド電池(Baghdad Battery)

イラク・バグダード近郊で1932年頃に発掘された土器の壺。
出土したのは民家遺構の中で、呪文が書かれた3つの鉢と共に置かれていた。
高さ約10cm、直径約3cm程度で、粘土を焼いて作った素焼きの土器の中に固定された銅の筒が入っており、
さらにアスファルトで塞がれたシリンダーの中に鉄製の棒が差し込まれている。
また、底には何らかの液体が入っていた痕跡があった。
1938年に「電池の一種ではないか」とする論文が発表され、その後1978年に「電池と推定される器具」と展示されたことで世界中に紹介された。

電解液として酢や葡萄酒を用いた結果、電圧0.9~2ボルト程度で発電される事が分かったが、
発見時と同じくアスファルトで口を閉鎖した場合はすぐに電流が止まってしまう事も確認されている。
また、壷の様式はサーサーン朝様式で、同様の構造の壷が他にも多数発見されている事、それらからパピルスの繊維が確認されている事から、
この壷は宗教的な祈祷文を入れて埋める壷であり、金属棒は巻物の芯棒だったという説もある。

電気を見つける事と、電気を扱う事は別の問題とも言われるが…


28
オーパーツでてくる漫画とか小説映画あったら教えてほしいンゴねぇ…
スプリガンは読んだけど


33
>>28
映画だとインディ・ジョーンズ、ゲームならアンチャーテッドとか?


30
ワクワクするぅ             



31
氷河時代の金属容器(Metallic Vase)

この遺物(?)は載せるべきか迷ったが、一応記載しておく。
アメリカ・マサチューセッツ州で1850年頃に発見された金属の容器。
ドーチェスターにある岩山で建設工事が行われた際、作業の一環で爆破工事を行ったところ、
岩の破片の中から2つに割れた金属が発見されたという。
2つの金属はぴったりと合い、鐘状で高さ12cm程度の容器である事が分かった。
材質は銀を多く含んだ合金で、外側には花柄模様が銀細工で装飾されていた。
金属容器が埋まっていたのは地下5mの礫岩層の部分で、そこは数万年~200万年以上前(氷河時代)の地層だという。
銅の精錬は紀元前5500年ごろにペルシャで始まったと言われているので、氷河時代のものなら明らかに時代錯誤遺物となる。


34
日本刀もオーパーツやで


36
西晋のアルミニウム合金製ベルトバックル(Aluminum alloy belt buckles of Western Jin)

3世紀~4世紀に建てられた古代中国の王朝「西晋」の遺物。
1956年、中国江蘇省にある西晋時代の将軍・周処の墳墓から、一体のミイラと共に金属製の帯留めが発見された。
調査の結果、金属の組成はアルミニウム85%、銅10%、マンガン5%の合金であることが判明した。
アルミニウムは極めて酸化しやすい(錆びやすい)物質で、通常は他の物質と結合して存在しているため、
この帯留めを作るには、他の物質からアルミニウムだけを分離・抽出しなければならない。
また、アルミニウムが単体として分離されたのは19世紀になってからというのが化学史の定説とされている。

ここまではよくあるオーパーツの話で終わるのだが、実は周処の墳墓からは17個に及ぶ金属製帯留めが発掘されており、
また、鑑定に使われたのは帯留めではなく墳墓で見つかった小さな金属片だった。
その後帯留め自体を鑑定したところ「銀製」であり、金属片は20世紀以降の盗掘によるものと調査されている。


37
コソの点火プラグ(Coso artifact)

「コソ加工物」とも呼ばれる、アメリカ・カリフォルニア州のコソ山脈で発見された点火プラグ。
晶洞石(ジオード)の中から発見されたという話や、
プラグを覆っていた化石化した土は地質学者の調査で50万年前のものという鑑定結果が出た、という話がある。
セラミック製と思われる直径19mmほどの機械の一部が出土し、それは木の筒に包まれ、真ん中には直径2mmほどの金属製の軸が通っていた。
2000年に、「アメリカ点火プラグコレクター協会」から全米を代表する4人の点火プラグコレクターたちがコソ加工物のX線写真をもとに鑑定を行っており、
その結果「1920年代にアメリカのチャンピオン社によって造られた点火プラグに間違いない」という、メーカー名まで一致した鑑定結果が出されている。
50万年前のものという話については、鑑定した地質学者とされる人物が実在するかも分からず、学術的な調査は一度もされていない。
スミソニアン博物館などがこの遺物の引き取りを検討していたが、所有者が2万5000ドル出さなければ手放さないと主張したため、引き取られることはなかった。
その後現物は行方不明となっており、写真しか現存していない。


38
トゥーラの戦士像(Tula warrior statues)

メキシコ・イダルゴ州にある遺跡「トゥーラ=シココティトラン」の戦士像。
この遺跡にある「ピラミッドB」と呼ばれる建物は、構造などがチェチェン・イツァの建物と酷似しており、
どちらが先の技術なのか論争が繰り返された過去がある。
そのピラミッドBの上に立つ戦士像は、腰にホルスターに入った銃のようなものを携えているという話がある。
写真を見たところそのようにも見えなくもないが、何かの工具のようにも見える。
セント・クラウド州立大学のアイヴァン・ ワトキンズ教授は、
トゥーラ以外の遺跡でも多くの切り石が未知の技術によって切断・加工されており、太陽光を利用した熱放射装置のような技術があったのではないかと主張している。


40
秦のクロムメッキ剣(Chrome-plated swords of Qin)

中国・陝西省にある「秦の始皇帝陵墓」周辺に埋納された遺跡「兵馬俑坑」から出土した剣。
兵馬俑坑は考古学史における20世紀最大の発見の1つとされ、8000体の武士俑などが出土している。
兵たちの特徴は、「どれ一つとして同じ顔をしたものはなく」「様々な民族で混成されており」、そしてオーパーツと呼ばれる剣を腰に差していた。
長さ90cmの青銅の長剣はクロムメッキ加工が施され、製作から2200年以上が経過した現在でも光沢があり、重ねた新聞紙を切るだけの切れ味を持つ。

西欧におけるクロムメッキ技術は1937年にドイツで発明された近代のメッキ技術で、
鉄とクロム化合物を密閉容器に閉じ込め、水素ガス/アルゴンガスを吹き込み、1000度に熱してメッキを施すというものだった。
秦の時代にこの技術が存在したという記録はなく、150年後の漢の時代に作られた銅剣は、どれも原形をとどめないほど腐食している。
なぜテクノロジーが継承されなかったのか、どのような技術が使われたのかは現在も不明とされる。


41
こういうのテンション上がるわ


43
越王の剣

「越王勾践剣」は、中国春秋時代後期の越の王「勾践」が保有していた8本の名剣。
長らく伝説の剣とされていたが、1965年にそのうちの1本が湖北省で出土した。
剣の長さは柄の8.4cmを含めて55.7cm、幅4.6cm、重量875g。
両面に菱形の連続パターンが施され、ターコイズと青水晶とブラックダイヤモンドで象嵌されている。
越王の剣は「秦のクロムメッキ剣」と同じように、2千年以上経過したにも関わらず腐食する様子も無く、今でも鋭さを保っている。

近代的な手法蛍光X線で解析を行った結果、剣本体は銅で作られており、
刃の鋭さを維持し硬くするため錫が多く含まれ、表面の模様には硫黄が多く含まれ変色を抑えていることが判明した。
研究が進むと、剣全体が薄いクロムの層に覆われている事が発見された。
これは秦のクロムメッキ剣と同様の処理によるものと考えられている。


44
デリーの鉄柱(Iron pillar of Delhi)

「チャンドラヴァルマンの柱」とも呼ばれる、インド・デリー市郊外にある鉄柱。
「アショーカ・ピラー」(アショーカ王の柱)という呼称もあるが、
アショーカ王の建てたものではなく、それより700年近く後のものとされている。
99.72%という高純度な鉄で作られており、表面にはサンスクリット語の碑文が刻まれ、頂上には装飾的なチャクラがあしらわている。
この柱は「1500年間錆びない鉄柱」という話で有名になり、よくオーパーツとして取り上げられた。

鉄柱が純度の高い鉄製だから錆びないというのは誤りらしく、
純度が高い鉄でも50年も放置すれば錆びるそうで、この鉄柱が錆びないのはむしろ不純物の存在が鍵だという話がある。
1つの説として、表面に押し出されたリンが鉄と結合してリン酸鉄を作り(インドの鉄がリンの含有量が多い)、
それが表面をコーティングして錆を防いでいたというものがある。
また、観光客たちが不思議な力にあやかろうと柱を触ったために錆が落ちたという話もあるが、1997年以降は柵囲いが設けられている。


63
>>44
地中部分は腐食してボロボロらしい


45
コッテンフォルストの鉄柱(Iron pillar of Kottenforst-Ville)

ドイツのコッテンフォルストにも錆びない鉄柱といわれるものが存在する。
地元では「Eiserner Mann」(英語訳でIron Man=鉄の男)と呼ばれている。
しかし、デリーの鉄柱の方が圧倒的に有名になってしまったため、写真や記述は少ない。
地上に1.4m、地中に2.7mの深さまで埋められた鉄柱で、600年以上の間錆びていない部分があるそうだ。
鉄は酸素を取り込み、鉄鉱石などは酸化鉄の状態で安定し、精錬した鉄も同様に酸化するため、過程で生じる酸化鉄は錆となる。
デリーの鉄柱はインド特有のリンという不純物や観光客が触れた事などが原因として挙げられているが、
ドイツの鉄柱はsandbed pouring techniqueという技術が使われたと考えられている。


46
Baigong Pipes

中国・青海省にあるBaigong山の山頂には三角形の入り口を持つ3つの洞窟がある。
ここには数百本のパイプのような構造物が点在している。
パイプは山の奥深くにもあり、また、いくつかは近くの塩水湖にも存在するそうだ。
製作者は不明。自然発生的なものという説もある。
大きいもので直径40cmあり、意図的に配置されているという話も噂されている。
分析では、30%酸化鉄と、大量のシリカ(ケイ酸/酸化シリコン)、酸化カルシウムで構成され、8%は不明となっている。
用途としては、古代の天文学実験室という推論が挙られている。
また、2007年の調査でパイプの一部は高レベルの放射性を持つことが確認された。


47
アユードのアルミ楔(Aluminum Wedge of Aiud)

1974年、ルーマニア・アユードの東1.2マイルにあるムレシュ川河岸で楔型の物体が発見された。
地中約10mのところから、2体のマストドンの骨とともに掘り起こされたという。
ハンマーの頭の部分のように見えるこの物体は、薄い酸化物の層に覆われたアルミ合金でできていた。
アルミが発見されたのは1808年で、量産されるようになったのは1885年以降とされている。
この楔はマストドンの骨と同じ地層から発掘されているため、少なくと1万1000年前のものであると考えられているそうだ。
最も、そんなロマン溢れる話に水を差すような説も存在する。
それは、「発掘の際、掘削機の歯の1つがマストドンの骨の近くに壊れ落ちた。それを機械に疎い人間が誤って古代のものだと認識した」という説である。


48
水晶髑髏(Crystal Skull)

水晶で作られた人間の頭蓋骨模型。現在十数個が確認されている。
そのほとんどがマヤ文明やアステカ文明、インカ帝国といった中南米の考古遺物とされているが、出土品かどうかについては懐疑的な意見もある。
一般に水晶髑髏といえば、イギリス人のミッチェル・ヘッジスが1927年にベリーズのルバアントゥン遺跡で発見したとされる「ヘッジス・スカル」を指すことが多い。
ヘッジス・スカルはミッチェルの養女アンナの17歳の誕生日に発見され、彼らが遺跡の調査を中断して私蔵したため、様々な憶測を呼んだ。
1970年代の分析によると、加工痕がなく、水晶の石目を無視して掘られているという結果が出たそうだ。
その後2008年に精密調査が行われた結果、電子顕微鏡によって水晶髑髏の表面にダイヤモンド研磨剤による切断跡が確認され、19世紀末以降に製作されたことが判明した。
水晶は加工の難しい物質だが、人力では300年以上かかるとする見解もある一方で、手作業で半年ほどで制作してしまうグループもいるという。

また、水晶髑髏には光を1点に溜めるもの、様々な色に光るものがあるという主張もあるが、
学術的な研究や検証は行われておらず、効果とされるもののうちの幾つかは生理現象や物性による説明も可能とされる。


50
ブリティッシュ・スカル(British Crystal Skull)

アステカの遺跡から発見されたという水晶髑髏。大英博物館所蔵。
円盤型の回転工具による加工痕があり、ヨーロッパで19世紀後半に製作されたものであることが判明した。
研磨はダイヤモンドを混ぜた鉄製工具で行われたと見られている。
また、含有物の調査によって水晶はマダガスカル産であることも確認された。
この髑髏はパリで骨董品店を経営していた古物商ユージン・ボバンが所有していた物で、
3500フランで展示されたが買い手がつかず、ニューヨークの宝石商ティファニーに950ドルで販売されたという。

他にも
「パリス・スカル」「マックス・スカル」「シャ・ナ・ラー・スカル」「マヤ・スカル」
「アメジスト・スカル」「ローズ・スカル」「カース・スカル」「ETスカル」などの水晶髑髏が存在する。
オカルト的な話では、「水晶ドクロは全部で13個あり、全てが再び一ヶ所に集結した時、宇宙の謎が暴かれる」という俗説がある。


51
アッシリアの水晶レンズ(Nimrud lens)

「ニムルドレンズ」とも呼ばれる、約3000年前にあった世界最古の水晶レンズといわれるもの。
ニムルドにある紀元前7世紀の古代アッシリアの墓から1853年に発見された水晶製の小片で、
調査したレンズの専門家がレンズと結論づけたことからこの名で呼ばれている。
水晶は長さ4.2cm、幅3.45cm、中心部の厚さが0.64cmで、平凸レンズの形状をしている。焦点距離は12cm。
発見者のオースティン・ヘンリー・レヤードは「この小片は多くの不透明な青いガラス片の下から出土した。
それらのガラスは朽ち果てた木製や象牙製の何かを覆っていた象嵌材の破片と考えられる」と報告している。
実際に、これは象嵌に使用されたものであり、レンズとしての効果は偶然の産物であるという見解が有力とされている。


53
アンティキティラ島の機械(Antikythera mechanism)

天体運行を計算するために作られた古代ギリシアの歯車式機械。
この機械は1901年にアンティキティラの沈没船から回収されたが、その複雑さや重要性は何十年もの間気づかれることがなかった。
長期間に及ぶ機械の洗浄の後、1951年頃から本格的な調査が行われた。
製作時期は紀元前150年~100年と考えられており、同様な複雑さを持った技術工芸品はその後1000年間現れることはなかった。
装置は現在の天文学から見ても非常に正確に出来ていて、デザインも美しく、歴史的に見てモナ・リザよりも価値があると言われる事もある。
縮小化と部品の複雑さは18世紀の時計と比較しても遜色ない仕上がりになっている。

クランクを回転させると機構が太陽、月やその他の天体の位置を計算する。
また、暦ダイヤルを4年に1回1日分戻すことにより実際の1年(約365.2422日)との誤差を補正することができる。
1つの仮説として、月の運行の計算技術に天文学者ヒッパルコスの理論が用いられているため、
おそらく古代ストア哲学者のポセイドニオスかヒッパルコスが製作に関わったとみられている。


54
ピラミッド・アイ・タブレット(Pyramid with the eye in Ecuador)

エクアドルのラ・マナで発見されたといわれる石造のピラミッド型工芸品。
1980年代に金の採掘主任ギレルモ・ソトマヨーアによって、深さ10mの廃坑から300余りの遺物が発見された。
その後、これらの遺物はソトマヨーアの知人にまとめて譲渡され、保管されていた。
1999年、遺物の中に「プロビデンスの目」に似た模様があるピラミッド・アイ・タブレットが眠っていたのが発見され、
その後ウィーンで開かれた「未解明の謎展」で大きく取り上げられた。

高さは27cmで、表面は三角形状になっており、頂点部分に一つの目が象嵌されている。
目の下部には13の水平な段が刻まれていて、底面には黄金の埋め込み細工で、オリオン座の配置が描かれている。
その下には絵文字が刻まれており、クルト・シルトマン教授の解読によると、先サンスクリット文字で「創造主の息子がやってくる」と書かれているそうだ。
2005年時点で、この遺物について学術的な調査は行われていない。

神の目、或いは神そのものを意味する「プロビデンスの目」(中世でよく使われた)


55
プレ・インカの白色染料(White dye of Pre-Inca period)

プレ・インカは、南米・インカ帝国以前のアンデス文明の諸文化で、未だ謎の多い文明。
紀元前1000年頃から発生したと考えられている。
プレ・インカの織物に使われた染料はオーパーツと言われており、織物には鮮やかな「白色」に染め上げられた部分があるという。
現代の染色技術界には「白色顔料」はあるが、「白色染料」は存在しないそうで、
理由としては、染めなくても漂泊という比較的安価な方法があるためといわれる。
ものを白く染めるにはムラが目立ち易いため、大量の染料が必要且つ光に強い構造にするには高価になり過ぎるそうだ。
また、漂白・白抜き・顔料などの方法はどれも長持ちしないとされるが、プレ・インカの白色染料は1000年後も白色を保つといわれている。


72
>>55
インカは色々技術高いイメージや


57
コロンビアの黄金ジェット(Quimbaya artifacts)

コロンビアの遺跡から発掘された、飛行機やシャトルを思わせる黄金細工。
「黄金スペースシャトル」とも呼ばれ、英語では「Quimbaya artifacts」(キンバヤ遺物)と呼ばれる。
シヌー文化(西暦500年~800年)時代のものという説と、もっと古いプレ・インカ文明のものという説がある。
動物学者であり、世界的に有名な超常現象研究家のアイヴァン・サンダーソンが、
「三角翼と垂直尾翼があり、ジェット機やスペースシャトルにも見える」と考えた事で有名なオーパーツの1つとなった。

大きさは幅5cm、高さ1cmほどで、実はこれ以外にも鳥や昆虫・魚を模したと思われる大量の類似品が見つかっているが、
オカルト本などでは大抵の場合この黄金ジェットだけが紹介されている。
魚や鳥がモデルであれば流体力学的に理にかなった形状を持っていても不思議ではなく、
中でもモデルとして有力視されている生物に、同じ南米に生息するナマズの「プレコ」が挙げられている。
発見場所のコロンビアとナスカの地上絵のあるペルーが場所的に近いことや、
黄金ジェットとナスカの地上絵の造られた年代が一致することから、なんらかの関わりがあるのではないかとも言われている。


58
クリスタルスカルは欧州のどっかで民芸品として普通に売買されてるって聞いたことあるな


60
遮光器土偶

遮光器(しゃこうき)土偶は、縄文時代につくられた土偶の一種。
一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型で、
目にあたる部分が、イヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する「遮光器」のような形をしていることから呼称がつけられた。
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。
胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが主なタイプ。

人間の形を逸脱したようにも見える極めて特徴的な形態から、
一部では「宇宙服を着用した人(或いは宇宙人)の姿を模ったもの」という説が提唱されている。
その他にも、古代シュメールの女神イシュタルと似通っているという話がある。


61
サラマンカ大聖堂の宇宙飛行士(The astronaut of Salamanca Cathedral)

スペインのサマランカ旧市街に位置するサラマンカ大聖堂には、宇宙飛行士を模したレリーフがあるという。
大聖堂を作り始めたのは1102年で、竣工は1300年~1400年頃とされている。
その後、1600年~1800年の間に新大聖堂が建てられた。
問題はこの新大聖堂で、建物の北口には豪華な彫刻で飾られたヒサシが備え付けられているが、その中に奇妙な人物が彫られている。
特徴的な服やヘルメット、酸素を供給するパイプ、生命維持装置などは、完全に近代的な宇宙飛行士を思わせる。

実は、この彫刻は17世紀に彫られたものではなく、そのずっと後、1992年の修復工事で付け加えられたものだそうだ。
これはミゲル・ロメロという石工によって付け足された物であり、
20世紀の象徴として宇宙飛行士のデザインを選んだと言われている。
また、装飾の中にはアイスクリームを食べる化け物なども紛れ込んでいる。


62
キエフの宇宙飛行士(The astronaut of Kiev)

キエフは、東欧・ウクライナの首都。
この地で紀元前800年頃から繁栄した「スキタイ文明」は、遊牧民の文明だった。
その遊牧民の1つ、カヤポ族の遺物とされるものがオーパーツと呼ばれている。
アルタイと呼ばれる地域の凍った墓の中から見つかったのもで、材質・大きさは不明。
紀元前700年前のものと推測されているが、紀元前2000年頃という説もある。
「宇宙飛行士」または「ロボット」にも見えるとして、海外のページでも多く紹介されている。


67
エル=バウル記念碑27号(El Baul monument No.27)

エル=バウルは中米・グアテマラの南部高地、太平洋岸近くに位置する400年ごろの遺跡。
ここには「コツマルワパ様式」と呼ばれる、
この地で盛行したと考えられるナワ族風、メキシコ風の図像に特徴づけられる石彫群がある。
コツマルワパの石彫の特徴は、「骸骨や人体模型」のようなレリーフ、「球戯や球戯者」に関連する図像などとされる。

中でも、「球戯者の石碑」と名付けられた「エル=バウル記念碑27号」は、
顔は猿に似た動物で、体は人間、目の周囲が窓のようになっており、ヘルメットを装着しているように見え、
さらにそのヘルメットからはチューブが出て背中のタンク状の装置に連結している。
口に当たる部分からは炎らしきものが吹き出している(これは象徴化された水という説が有力)。
奇妙な石彫のため、一部では「マヤの人々が人間ではない何かを描いたものではないか」という説が挙げられている。


70
パレンケの石棺の浮き彫り(Tomb of K'inich Janaab' Pakal)

パレンケは、中米・メキシコに存在するマヤ文明の古代都市遺跡。
7世紀に最盛期を迎えた宮殿を中心とする建物群を密林の中に配置している。
18世紀の半ば頃、スペイン人に発見され、1948年から本格的な調査が始まった。
1952年に肖像画やマヤ文字、石棺、そして615年~683年に在位した「パカル王」の遺体が発見された。

パカル王の石棺の浮き彫りは、横から見るとロケットに乗った宇宙飛行士のように見えるため、
マヤ文明が宇宙人によって作られたと述べるUFO研究家の間で広く知られている。
この説は、1968年にスイスのエーリッヒ・デニケンが著した「未来の記憶」によって広く伝わった。
確かに横に見ればロケットのようにも見えるが、

この石棺の図柄は縦に見て「生命樹の下に寝そべる王」を表現したものであるという説が一般的な解釈とされている。

ロケット説では横に見て

生命樹説では縦に見ます



73
ヴィマーナ(Vimana)

古代インド最古の古典「リグ・ヴェーダ」の叙事詩「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」に登場する、自在に空を飛ぶ乗り物。
現代の航空機のようにさまざまな形式があり、多くは英雄たちによって戦争などに使用されている。
大気圏または、大気圏外への航行が可能なヴィマナもあったとされ、この故事から現代のインドでも航空機はヴィマーナと呼ばれている。

また、紀元前10世紀頃に書かれた「ヴァイマーニカ・シャストラ」にはヴィマーナの製造方法や操縦法が書かれている。
ヴィマナの構造や材質、飛行能力の各種別やパイロットの訓練といった運用面に至るまで、
100ページ以上を割いて細部に渡る記述が見られる。
ただし、この書物は一種のチャネリング(霊的・神的交信)によって20世紀初頭に口述・作成されたという話もあるので、
紀元前10世紀に航空機の詳細な情報が伝えられていたという説には懐疑的な意見も挙げられている。


74
有翼円盤(Symbolism of Shamash)

アッシリアを始めとするメソポタミアの古都遺跡には、円盤(或いは円環)に翼が生えた「有翼円盤」と呼ばれる彫刻がある。
この翼を鳥とみなすと、大きく広げた翼の真ん中(鳥の胴体に当たる部分)に円盤(円環)があり、
その円盤からは王冠らしきものをかぶった横向きの人物が現れて、左手に輪のようなものを持ち、右手を軽く挙げている。
このような奇妙な描写から、有翼円盤は「古代におけるUFOの描写」で、
古代人は大きな翼を用いてそれを表現し、円盤から出ている人物は、王たるもの=宇宙を統べる者ではないか、という説がある。

定説では、この有翼円盤は「神を象徴するもの」とされ、それはメソポタミアの太陽神シャマシュを指すと考えられている。
また、鳥の翼をつけた円盤というイメージは古代エジプトが起源で、鷹の羽根をつけた日輪は天空神ホルスの象徴といわれている。


75
マヤの飛行艇(Flying boat of Mayan civilization)

マヤ文明の大規模な都市遺跡は紀元前400年頃から築かれはじめ、
メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどのいわゆる「マヤ地域」を中心として栄えた。
年代は不明だが、メキシコのヴェラクルスにあるメヒコ神を祀った遺跡からオーパーツとされる遺物が出土している。
遺物を見てみると、機体の両側には翼とみられる穴のあいた半円状の構造物、尾部には2対のパイプがある。
ヘルメットをかぶり、肩にパットを付けたような人物が座り、操縦桿のような装置が後ろに付いている。
これは「飛行艇」を模したものではないかという説があり、構造的に見て、両翼の穴にはタービンがあり、
ホバークラフトのような機体を連想させる。
勿論航空機の技術は近年になって確立したものだが、
世界各地の遺跡から航空機を模した遺物が出土しており、古代には高度に発達した航空技術があったという推論もある。


77
古代トルコのロケット(The rocket of Ancient Tukey)

トルコの東方にあたる古代ウラルトゥ王国から出土した奇妙な彫像。
(トルコ・イスタンブールのトゥスパ遺跡から発掘という記述もあり)
遺跡の年代から約3000年前のものと推定されており、長さは23cm程度。
円錐形の機体の左右に短い水平翼があり、中央にあるコップピットのような場所には、
首の欠けてしまったパイロットが宇宙服のような服を着て、ひざを抱えるようにして座っている。
また、後方にはジェット噴射ノズルのようなものが3本付いている。

紀元前に空を飛ぶ乗り物の存在は確認されていないが、トルコ近辺、メソポタミアには非常に発展した文明があった。
そのため、一部では「宇宙人がシュメール人を作った」
「(王位が1万年という謎の記録がある事から)シュメール人は地球人ではなかった」などという噂が囁かれている。


79
スク寺院のロケットのレリーフ

インドネシア・ジャワ島のスク寺院にあるピラミッド型の建物屋上には、
高さ2mのファロストーンのレリーフが佇んでいる。
上部には太陽と月が浮かび、下部にはロケットにそっくりな先の尖った物体が彫られている。
ロケットには叡智の象徴である蛇も描かれているという。
寺院の建立は15世紀頃とされており、当然その時代にロケットは存在しないが、このレリーフ自体がいつ頃の物なのかは不明。
インドネシアでは仏教・イスラム教が伝来する前はアニミズム(地霊・精霊信仰)が盛んであり、
このロケットは「リンガ」と呼ばれる、シヴァ神を象徴する男性器の形をした彫像の一種ではないかという話もある。

エジプトのクシュ遺跡にあるレリーフにも似たようなものが彫られている


81
エジプトのはずみ車(Egyptian flywheel)

カイロにあるエジプト博物館でひっそりと展示されている遺物。
1937年に、カイロ郊外のサッカラ(ギザの大ピラミッドの南)の第一王朝皇太子サブーの墓から発見された。
製作年代は紀元前3100年頃で、直径70cm、厚さ10cmほどの、加工の難しい片岩(シスト)でできた遺物。
対象的にデザインされた規則正しい曲線からなる。
この奇妙なデザインは古代遺跡の発掘物のなかで類を見ないタイプであり、当時の時代感覚からすると、何かを模倣して作られた可能性があるそうだ。
また、米国ロッキード社の技術者は、「自分たちが近年、宇宙船や機関車の新型エンジン用に試作した『弾み車』にそっくりの形態だ」と述べている。
そのため、この遺物は一部で古代のジェット機の動力部分に使われていた物を複製したオーパーツではないかという扱いを受けており、「フライホイール」の名で呼ばれている。


82
ファラオのタービン(Pharaoh's turbine)

1997年に考古学者のペルドリゼットがブバスティスから発掘した遺物。
現在はカイロ博物館に貯蔵されている。
外形は花瓶のように見えるが、両端が開いているので違う用途と考えられる。
内部の筒型の空間には波形の筋が刻まれていて、タービン或いはスクリューを連想させる構造になっている。
解釈はさまざまだが、何らかの動力に関連する物と言う見解が大半といわれる。
ネット上に写真が少なく、タービンらしきものの素材も写真からは判断しにくい。


83
古代エジプトのグライダー(Saqqara Bird)

有名なオーパーツの1つなので載せておく。
紀元前200年前後のプトレマイオス朝時代(時代区分から言えば「古代エジプト」ではない)の墳墓から発掘された、15cmほどの木製品。
カリル・メシハという医学博士がこれを飛行機だと主張し、同様の模型を作成して飛ばしたところ、かなりの距離を滑空することが判明したという。
軽量のいちじくの木で作られていることから、模型を小型飛行機の大きさに拡大しても十分に飛行が可能だそうで、
そのためオーパーツであるという説も挙げられている。

遺物には目とくちばしが付いており、「小鳥を模した木製模型」であることは写真を見れば一目瞭然だが、
過去に出回った「グライダーに見える」と称された写真の多くは目や嘴の写らない角度から撮影したものとなっている。


84
オーパーツってやっぱ前に栄えた文明の名残なんやろか


85
黄金ブルドーザー(Gold Dozer of Panama)

1940年に、パナマ南部のコクル地方で発見された遺物。
そこでは西暦500年~800年頃に作られた複数の黄金細工が見つかり、そのほとんどが動物をモチーフにしていたが、中には判別が出来ないものもあった。
この遺物は全長12cmほどで、背中にエメラルドが埋め込まれていた。
初めはジャガーかワニがモデルになっていると考えられたが、
尻尾に歯車があり、背中が平らで、胴が短く、また、足の関節が全て逆に付いているという謎が残った。
さらに、動物学者・超常現象研究家のアイヴァン・サンダーソンによって、
「これは古代の採掘機(ブルドーザー)ではないか」という仮説が挙がった。
尻尾に見えたのは掘削用のアームであり、先端にあるのは歯車動輪付きの鋤(すき)で、逆になった関節は車体を支える緩衝装置だという。

歴史家クセノフォンの記述には「クレーンのような物を使った」と言う記述があり、
古代ピラミッド等の遺跡が人力以外のもので作られたという仮説は未だ根強いので、古代に機械が使われていたという話によく取り上げられる。


98
>>85
この黄金ジェットといい、ブルドーザーといい
ええデザインやなあ


86
古代の鉄製ハンマー(London Hammer)

1934年にアメリカ・テキサス州ロンドンで発見されたハンマーの化石と言われるもの。
付近を散策していた夫妻が風化した岩の塊を発見し、その岩から木製の柄のようなものが出ている事に気づいたという。
1989年にハンマーの頭にある鋳鉄の成分をX線断層検査したところ、
鉄96.6%、塩素2.6%、硫黄0.74%、珪素0.06%という測定結果が出た。
鉄の純度が高いのは「錆びない鉄柱」などとも似ているが、現代の技術では塩素を含んだ合金が作れない事で疑問を呼んだ。
また、ハンマーの柄の部分は化石化しており、これは例えば労働者が置き忘れたハンマーが泥と土の中で固まった、という考えを退けるものとされる。

製造年代については、出土した地層から判断すると1億4000万年~1億6000万年前のものだという。
ただし、X線断層撮影で内部の元素分析を行うことは最新の理化学機器を以っても不可能である上、
表面の分析では付着した塩化物(人体由来など)の影響も考えられ、分析精度自体が疑わしいとも言われている。


87
現代の機械や美術品かなんかも時が経てばオーパーツになるんやろか…。
経年劣化の様子をシミュレーションする方法はないんやろか


89
カンブリア紀の金属ボルト(The metal bolt of Cambrian)

1997年にロシア・ブリャンスクで発見された、石の中に埋まっていたボルトのようなもの。
モスクワ地質研究所が石の年代を調べたところ、およそ15億年前という結果が出た。
石の大きさは20cm程度で、後のX線検査で石の中には同様のボルトが10個ほどあるのが確認された。

当時、15億年前はカンブリア紀と知られていた事からこの名称が付いたと思われるが、
現在の地球年表を見てみるとカンブリア爆発が起きたのは5億7000万年前で、15億年前には大陸移動による超大陸の誕生が起きており、
多細胞生物の出現は10億年~6億年前とされている。
また、ヒトの歴史は約200万年~300万年、猿人の誕生を含めても600万年~700万年なので、当然このボルトができた時代にはカケラも存在していない。
モスクワ航空大学のチェルノブロフ教授は「15億年前に地球にやってきた宇宙船が何らかの原因で故障・爆発し、飛び散った部品の一部」と主張している。


90
ロマンやなあ
みてて楽しいわ


91
三億年前のネジ

1990年代にロシアの岩石の中から3億年前のものとされるネジが見つかったという記述もあった。
これは上述の「カンブリア紀のボルト」と同じものだろうか?
「発見以来、世界中から大きな注目を集め、正体を巡って激論が交わされてきた」といわれ、
「ロシアの科学者は、高度な発展を遂げたが滅亡した人類の失われた文明か、あるいは異星人の手によるものと主張する」と記述されている。

このネジは一方で海洋生物の化石だとする専門家も存在し、太古の海に生息していたウミユリの仲間の化石という説が挙げられている。
ネジ状の形はウミユリが分解する前に周囲に岩が形成されたことによるものだという。
物体を発見したのは「コスモポイスク」というロシアの超常現象研究機関で、隕石の衝突跡地を調査していた際に偶然発見したそうだ。


92
更新世のスプリング(Prehistoric Hi-Tech Nanospirals)

1991年頃に、ロシア・ウラル山脈東部の川で金採掘をしていた人々が発見したらせん状の極小部品。
これらのスプリングはロシア科学アカデミーとヘルシンキの技術研究所により分析され、
製造年代は推定2万年前~30万年前という結果が出た。
更新世はほとんどが氷河時代だったが、ネアンデルタール人や北京原人といったヒトも活動している。
発掘された金属類は銅製のコイルやネジのようなもので、加工に数千度の温度が必要なタングステン製のものもあった。
注目すべきはそのサイズであり、最小のものは0.003mmで、ほぼ完璧に成形された輪のついたネジまで発掘された。
また、検査を行ったロシア科学アカデミーはロシア国内で有数の権威を持つ機関であり、世界中の科学者がこのニュースに耳を傾けた。

しかしその後、出土品以外にも同じ場所で同じようなスプリングが数千個発見される事になる。
これは幾らオーパーツでも数が多すぎるとして、この土地の歴史を調査した結果、旧ソ連の時代に工業プラントがここで稼働していた事が判明。
さらに、そのプラントが閉鎖される際に出た産業廃棄物の処理に困り、この土地を掘り返して埋めてしまったという事が発覚した。


93
ネブラ・ディスク(Nebra sky disk)

ドイツ中央部の街・ネブラ近くにあるミッテルベルク先史時代保護区で1999年に発見されたといわれる青銅の円盤。
直径約32cm、重さ約2050gの青銅製で、大小幾つかの金が張られている。
元々の円盤には、37個の金のインレー(象嵌)があり、円盤の縁は前面から38個の穴が互いから決まった位置に開けられていた。

2005年、ドイツの研究チームはこの円盤を「約3600年前に作られた人類最古の天文盤である」と結論付けた。
また、ネブラの天文盤は前期青銅器時代の極めて裕福な王侯の墳墓と密接に関係しており、
先史中央ヨーロッパの初期に強い社会的な格差があったことの証と考えられている。


95
ドロパ族の石円盤(Dropa Stones)

1938年に中国とチベットの境界に住む「ドロパ族」の地、青海省にあるインハル山脈(バインバル山麓という記述もあり)の洞窟から発見された石円盤。
ディスクは全部で716枚あり、花崗岩で作られ、内部に電気回路のようなものがあったとされる。
ロシアの検査によると、コバルトを含む金属物質が確認されたという。
製造年代は約1万2000年前~2万年前とされている。
また、ディスクの横からは正体不明の遺骨が数体発見された。
遺骨は幼児と思われ、身長が低く、頭が異常に大きいのが特徴だそうだ。
(もっと大きく120cm程度で、洞窟には宇宙の星々が描かれていたという記述あり)
写真を見ると眼窩が大きく、奇形の水頭症などとは違うようにも見える。
学者による調査の結果「適切な変換機があれば、ディスクに収められている電気信号を再生する事は可能だろう」ということだったが、再生機器はいつしか失われたという。


96
発生学円盤(Ancient disc of embryology)

「遺伝子のディスク」とも呼ばれる、南米・コロンビアから出土した円形の石の円盤。
炭分を含む「スレート石」という花崗岩と同程度の硬い石で作られており、直径22cm~27cm、重さは約2kg。
円盤は手で磨き込まれており、ボゴタ大学の地学者による調査では6000年以上前に作られたものと分析されている。
表面には男性の精子から胎児にいたるまでの成長過程、
裏面には細胞分裂の様子や生物の成長過程を思わせるものが段階を分けて描かれており、子供の絵、男女の区別などが見られる。
これらは顕微鏡のない時代に生物の発生・進化の過程が知られていたことを示唆するため、オーパーツという説が挙げられている。
この場合最も疑われるのは製造年代の偽装だが、最近の調べでその可能性は否定されているそうだ。


99
アステカのカレンダー(Aztec calendar stone)

アステカは、1428年頃~1521年までメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。
アステカの遺跡はスペイン人の侵略によって破壊され、わずかに残っているだけだが、
その中でも特に重要な遺物として、1790年に発掘されて以来「科学への桃戦」と呼ばれた太陽の石「アステカのカレンダー」が挙げられる。

円盤の中心にある現在の太陽がさし示す舌、針となる黒曜石のナイフが、
宇宙を形作る4つの運動(ナウイオリン)と一致する時が「第5の太陽の滅亡」といわれ、それは人類の終末を示すとも言われている。
カレンダーによればこれまでに人類は4度滅亡しており、5番目にあたる現在の人類滅亡の日は2012年12月23日(書籍によっては21日~24日)と一部で解釈されていた。


100
マヤの予言/マヤ暦の終わり(Mayan Prophecy/Mayan Doomsday)

ニューエイジ(新世界主義・霊性復興運動)関連の書物では、
マヤの長期暦(187万2000日を周期とする暦)は2012年の冬至付近で終わるとされ、
その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言も成就する(2012年人類滅亡説)といわれている。
しかし、マヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。
また、2010年~2011年にグアテマラで9世紀頃の遺跡から「マヤ最古のカレンダー」が発見され、
その結果2012年の終末を窺うものは見つからなかったと米科学誌サイエンスで発表された。

しかし、マヤ文明の暦を研究しているロバート・ワナメーカーは「マヤ暦にうるう年の計算が入っていなかった為に誤った情報が流れた」と言及し、
うるう年を考慮した完全な滅亡の予言は「2015年9月3日」であると発表した。
さらに、2015年9月3日滅亡説の信憑性を高める証拠として、
古代エジプトのイシス神殿に祀られている「1465体の神の加護が1年ずつ失われる時、世界が水没がする」という予言があり、
イシス神殿が西暦550年に閉鎖したので1465年後の2015年がXデーだという話、
ジョン・タイターの「2015年に核戦争が起こる」予言、
世界三大予言者の1人ジーン・ディクソンの「2015年に混乱がピークを迎える」予言などが挙げられている。


102
アビドス神殿の壁画(Ancient Egyptian Unknown Hieroglyphics)

エジプトの古代都市遺跡アビドスには幾つかの遺跡があるが、
一般的に「アビドス神殿」といえばラムセス2世の父親・セティ1世の葬祭殿を指す。
この遺跡は紀元前1300年頃ものだが、1997年に見学に来ていた研究家が、葬祭殿の一角に奇妙なものを発見した。
そこには、まるで現代のヘリコプターや飛行船、潜水艦のような物体が描かれていたという。
研究家によって撮影された写真は、テレビやインターネットを通して世界中に広まった。
これらの文字はオーパーツとして広く知られ、現在でもアビドス神殿は多くのファンによって注目を浴びている。
この文字に関しては、下記のサイトが詳しく分析しているので一見の価値あり。
ttp://www.moonover.jp/bekkan/ooparts/4.htm

結論から言うと、この文字は神殿に王名を彫り込んだヒエログリフだった。
ヒエログリフに馴染みのない人間は「文字としての認識」が出来ないが、読める者にとってはただの文字列に見えるそうだ。
また、この神殿以外で似たような文字が見られないのは、
当時、王が代わると王をたたえる神殿の文字なども掘り直す必要があったためで、掘り直しによって一部の文字がくっついてしまったせいだという。
後になって彫られた文字は「九つの外国を打ち倒す」=「(古代エジプトで九は"全て"を表すため)諸外国全てを打ち倒し平定した」という意味になるそうだ。


105
ハトホル神殿の壁画/デンデラの電球(Dendera light)

エジプト・デンデラの南東約2.5kmにはデンデラ神殿複合体と呼ばれる遺跡がある。
複合体には主神殿のハトホル神殿や、イシス神殿などがある。
ハトホル神殿にあるレリーフには細長い電球を思わせる絵が描かれており、「デンデラの電球」というオーパーツとしても知られている。
エジプトの学者の見解では、レリーフは神話の描写であり、
「ジェド柱」と、「ヘビ」を内側に産む「ハスの花」のエジプト神話の様相を表しているという。
ジェド柱はオシリス神の背骨としても解される"安定"の象徴だそうだ。

この解釈とは対照的に、それは古代のエジプトの電球の描写であると主張する境界科学(フリンジ・サイエンス)の提言がある。
その仮説では、よく似た現代の装置(例えば「ガイスラー管」「クルックス管」「アーク灯」など)との比較に基づき、
これらのレリーフは古代エジプトの電気技術を描写したものとされている。


106
ホンス・メスのパピルス(Khonsu-mes Papyrus)

古代エジプトのホンス神殿に由来すると思われる絵図。
「細胞分裂」を描写している部分があるといわれ、オーパーツの1つとして知られている。
細胞は17~18世紀に顕微鏡によって初めて確認され、細胞分裂が観察・報告されたのは1842年なので、
古代エジプトで細胞分裂が知られていたのなら歴史的発見である。

この遺物については、いくつか解説があったので参考に記述していく。
まず、パピルスは右から左にむけて読む。
両手を上に広げているのは「百万」=古代エジプトで「無限」を意味するヘフ神。
ヘフ神が手に「アンク」=「生命」を意味する文字をかけている=「永遠の命」を意味する。
太陽(ラー)と氏後の復活を意味する儀式を行うマアト女神がいる。
赤い矢印で示したのは冥界の神で、冥界で裁かれる描写になっている。
青い矢印で示した細胞分裂の上に「アケト」=「地平線の絵文字」が書かれている。
細胞壁に見える部分は両側から二人の女神が水を注ぎ、次に白い服を着た故人がイチジクの樹の女神から乳を飲むシーンがある。

これらの描写から、死者の書の「太陽(ラー)とともに蘇らん」の呪文の部分と推測されている。


107
ポンペイ遺跡の恐竜狩り壁画(Dinosaur art of Pompeii)

ポンペイは、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。ローマ人の余暇地として繁栄した。
西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれ去ったことで有名。
この都市は1748年に再発見・発掘が開始され、断続的に発掘が行われた。

そんなポンペイにある「医師の館」とよばれる邸宅跡で奇妙な壁画が発見されている。
壁画にはナイル川と、赤道直下の狩猟民族であるピグミー達が狩りをしている様子が描かれている。
しかし同時に、約2億5000年前に生息していた恐竜ディメトロドンのような生物と、
カバのような体にワニのような顔を持つ巨大な生物が描かれている。
未だ壁画の正体は不明だが、カバやワニがカリカチュア化(誇張)して描かれたものだという説もある。


110
パレストリーナのナイル・モザイク(Nile mosaic of Palestrina)

ポンペイと同じくイタリアにある都市、パレストリーナでも奇妙な壁画が見つかっている。
ローマの東に位置し、紀元前8世紀頃から続く都市で、「フォルトゥナの神殿」があったことでも有名。
ここでは古代ローマ時代の紀元前1世紀に建てられた遺跡があり、「ナイル・モザイク」と呼ばれる奇妙なモザイク画が発見されている。
この絵画はナイル川の氾濫の様子を表現したものだが、そこにはイグアノドンに似た恐竜やサーベルタイガーのような動物が描かれ、
さらに地球には存在しない奇怪な生物たちの姿が描かれていた。
その後議論が重なり、近年ではプトレマイオス2世のエチオピア探査、
或いはイシスとオシリスの儀式を描いたものという説が挙げられているが、正体は分かっていない。


111
虚舟の蛮女(うつろふねのばんじょ)

虚舟は、茨城県大洗町沖の太平洋に突如現れたとされる、江戸時代における伝説の舟。
1825年の奇談・怪談本「兎園小説」で、作者の曲亭馬琴が「虚舟の蛮女」という題で図版とともに収録しているほか、
兎園会の会員だった屋代弘賢の「弘賢随筆」にも図版がある。
船の形は香の入れ物やお釜のような感じの円形で、直径は三間(約6m)ほど。
松ヤニか何かを用いて隙間なく固めてあり、底は鉄板を連ねて張ってあり、岩に衝突しても壊れないような頑丈な造りであった。
舟の上部には窓があり、漁民達には中の様子がよく見えた。 皆が覗き込むと、中には女が1人乗っていた。
若者が話しかけてみたがまったく言葉が通じないようで、女は二尺(約60cm)四方の大きさの箱をずっと抱えていた。
この女を役所に届けると負担が大きいので、漁民達は相談したうえで、女を元のとおりに舟に乗せ、再び沖に引き出して流してしまった。

虚舟はUFOの江戸時代的表現ではないかとも言われているが、虚舟が動力を持っていた、もしくは空を飛んだ等と読み取れる資料は存在しない。
他にも「潜水艇説」「神の乗り物説」「ただの創作説」などが挙げられているが、その証左となる資料は出ていない。


115
ノモリ像

西アフリカの国、シエラレオネのメンデ地方で発見された花崗岩の石像。
モチーフは人間や架空動物などで、立ち姿や跳び跳ねている格好をしている。
大きさは物によるが10~40cmで、地上から20m~50m地下で発掘された。
その場所で有機物を採取して年代測定を行なった結果、2500年前、古いものは1万7000年前という結果が出たそうだ。
石像の中には、現代になって精製が可能になったクロームの金属球が入っており、
どの石像にも地表面には存在しないイリジウムが含まれているという。
この地方には「有史以前に石の彫刻と化して地上に落ちてきた天使族」の伝承が伝わっており、それと関連のある遺物ではないかという説もある。


117
アカンバロの恐竜土偶(Acambaro figures)

メキシコのアカンバロで発見されたといわれる土偶。
1945年、ドイツ人実業家のワルデマール・ユルスルートがアカンバロの町外れにある山の麓で奇妙な土偶を発見した。
土偶は7年間の発掘でおよそ32,000体見つかり、中には恐竜に似たものもあった。
ユルスルートの友人の地質学者が年代の調査を依頼し、ベータ線計数法で測定したところ、紀元前1000年~紀元前4000年のものという結果が出たそうだ。

恐竜は6500万年前に絶滅しており、人類と共存した時期はない。
そのため恐竜を模した土偶がどのようにして作られたのかが議論の対象となっており、
恐竜の化石や爬虫類を観察して作ったという説、人類と恐竜が共存した時代があったという説などが挙げられている。
また、土偶の造形の中には、現在では間違いとされている恐竜観に基づいたもの
(例えば、ティラノサウルス・レックスが直立しているもの)があるので、懐疑的な見方を持つ者も少なくない。
他にも半人半獣のゾウ人間、ワニ人間や翼を持つ竜など、空想の産物のようなものが多数存在している。


118
トリンギット族のラトル(Shaman's rattle)

トリンギットはインディアン部族の1つで、アラスカ、カナダの先住民族。
「ラトル」は振って音を出す打楽器で、メキシコのマラカスのような種類が有名だが、
トリンギットのラトルは「海竜」をモデルにしたような姿をしている事からオーパーツと呼ばれている。
現在は、このラトルに描かれているのは海竜ではなく、
トリンギット族の間に伝わる伝説の鳥「サンダーバード」であるという説が有力とされている。
サンダーバードはUMA(未確認生物)としても知られるが、神話や伝説から抜けだしたものという認識が強い。
どちらにしても、このラトルはその時代には存在していないであろうものが象られている。


119
タ・プロームの恐竜レリーフ(Dinosaur relief of Ta Prohm )

東南アジアのカンボジアにあるアンコール遺跡群の中に、タ・プロームという寺院がある。
12世紀末に仏教寺院として建立されたこの寺院は、15世紀におけるクメール帝国の崩壊後、他のアンコール遺跡とともに放棄、無視されることになる。
映画「トゥーム・レイダー」の撮影に使われたことでも有名。
浅浮き彫り彫刻などで寺院の壁に刻まれたレリーフの中心には、多くの神話上の人物や神々、動物などさまざまな種類が描かれている。

その彫刻群の中に、「ステゴサウルスに似ている」とされるレリーフがある。
レリーフに刻まれた動物は全て彫刻者の時代に生きていたものと考えられているが、
恐竜は既に絶滅している筈でモチーフになる事はあり得ないため、オーパーツと呼ばれている。
一方で、ステゴサウルスにしては細かな部分が違うという意見や、サイやカメレオンを模したものではないかという説も挙げられている。


121
褐炭の頭蓋骨/フライベルグ・スカル(Freiberg lignite skull)

19世紀初頭、鉱山で栄えたドイツのフライベルグで発見された頭蓋骨型の遺物。
1500万年前に形成された中央ヨーロッパの褐鉄鉱石の地層から見つかった。
大きさは不明。褐炭、褐鉄鉱石、磁鉄鉱石で構成されている。
当初の研究では、炭素素材量が人間の頭骨の内部に蓄積し出来たものであると判断されている。

その後何度も分析が行われ、無名の一般人が作った贋作という見解が一般的だったが、
1998年にCTスキャンで調査したところ、頭蓋骨内部が樹木の年輪のような層をなしていることが判明したという。
贋作だとすれば、高熱の素材(褐炭の融点が110度~360度であるため)の薄膜を1枚ずつ重ねて作り上げたことになり、
また、当時そのような手法で制作された工芸品は存在しないことから、模造品の可能性は低いとする主張がある。


122
トリノの聖骸布(Shroud of Turin)

聖骸布(Holy Shroud)は、キリスト教でいう「聖遺物の」1つで、
イエス・キリストが磔にされて氏んだ後、その遺体を包んだとされる布。
イエスの風貌を写したという布には、「聖ヴェロニカの聖骸布」「自印聖像」など複数が主張されているが、
現存するのはイタリア・トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノの聖骸布」のみとなっている。
この聖骸布は1353年、伝存の経緯は不明だが、フランス・リレのシャルニー家が所有しているところを発見された。

本体は縦4m、横1.1mの亜麻布(リンネル)で、布の上に痩せた男性の全身像がネガ状に転写されているように見える。
裏には当て布があてられ、はがすと血の染みが見られる。
布上に残された全身像の痕跡から、頭を中心に縦に二つ折りにして遺骸を包んだと見られ、頭部、手首、足、脇腹部分には血痕が残っている。
信憑性については、本物か捏造かでかなり支持派・懐疑派が分かれている。
2010年には修復後初めて一般公開され、2015年にも一般公開が予定されている。


123
黄金のデスマスク(Funerary mask from Pre-Inca)

アンデスで紀元前1000年頃に栄えたプレ・インカ文明の墓地から発見されたミイラが着けていた仮面。
「デスマスク」は本来、石膏や蝋で氏者の顔の型を取ったものを指すが、この仮面はその名で呼ばれている。
仮面は金で作られ、涙を表現したと考えられる7つのエメラルドが両方の目に数珠つなぎに垂れ下がっている。
このエメラルドには極小の穴があけられ、糸が通されているが、
加工の難しいエメラルドにどうやって極小の穴を開けたかが不明であり、オーパーツの扱いを受けている。
鉱物の硬度基準でいえばダイヤモンドやルビーが10、エメラルドは7.5となっており、非常に硬く、そのうえ縦の衝撃には脆く割れやすい。


125
青い貝殻の首飾り(Blue seashell necklace)

黄金のデスマスクと同じくプレ・インカ文明の遺物で、墓から出土した首飾りのようなビーズ。
このビーズはスポンディルスという青い貝の貝殻を使った工芸品で、
ビーズはそれぞれ円筒形に加工され、1個の直径はわずか1mmとされる。
そして、それぞれのビーズには直径0.3mmの極小の穴があけられ、糸が通されている。
貝殻という脆い材質に極小の穴をあけるということは現代でも容易なことではない。
写真では新しく別の糸が通されて保管されているが、発見された時は0.3mmという穴に極細の糸が6本も通されていたそうだ。


127
バールベックの巨石(Trilithon and Stone of the South)

中東・西アジアのレバノンにはバールベックと呼ばれる古代都市遺跡がある。
ここには「トリリトン」と呼ばれる3つの巨大な組み石と、「南方の石」と呼ばれる巨大な切石があり、
どちらも人力では到底移動出来ないためオーパーツといわれる。
「トリリトン」はジュピター神殿の土台に使われており、三石の長さは約18m、重さは650t~970tで、
建築物に使われた切石としては世界最大とされる。
一方、建築物に使われていない切石として世界最大を誇るのが「南方の石」で、長さは約21.5m、重さは2,000tもある。
BBC放送で行われた実験では、丸太を使い、1トンの切石を1日1マイル運搬するのに16人が必要という試算が出ている。
この試算に基づけば、トリリトンは1万5000人以上の人員が必要となり、南方の石は3万2000人も必要となってしまう。
しかもこれだけの規模になるとロープの強度の問題や、多くの人間の力を集中させることが難しく、現実には運搬不可能といえる。


128
バールベックの巨石 その2

実際には、南方の石がある場所は元々石切り場として使用されていた。
また、石の下の部分は土に埋もれており、この石が確かに動かされた形跡というのは発見されていない。
南方の石は自然にあった巨石を加工したものの、その後(恐らくは巨大さ故に)放置されたと考えられている。
しかし、トリリトンの3石は実際に神殿の土台に使われており、石切り場から1km離れた場所に存在している。
970tの石を運ぶのは運搬不可能だとされているが、実は過去にトリリトンよりも重い石が運ばれた実例が見つかっている。
それは230年前、ロシアでピョートル1世の騎馬像土台に使われた石で、1,250tもある巨石を約6km、木製のソリにのせて人力で運んだ。
そのため、トリリトン級の巨石でも運搬方法は存在すると考えられる。

⇒重量の限界
このような古代の運搬技術への疑問は、オーパーツを扱う書籍に書かれた、
「NASAがロケットの移動に使用している最新技術のクレーンでも700t(古い本だと500t)が限度」という話からきているとされる。
しかし、現代の機械はそれを超える重量に対応しており、
無限軌道クレーンの「CC8800-1 Twin-kit」は、最大3,200tまで吊り上げ可能であり、
日本のクレーン船「海翔」は最大吊り上げ重量限度が4,100トンとされているそうだ。
陸上での運搬では「ユニットドーリー」というトレーラーが、最大3,226tの重さまで運搬可能だという。


130
こういうの見ると過去の人達は未来人か宇宙人と仲良くしてたんやないかって妄想祭り始まってまうわ


135
>>130
ワイは自転がすっげえ速くて重力が小さかったんじゃないかと妄想してる
だから赤道付近は文明の痕跡があって、両極にはなかったのかと


131
サクサイワマンの逆さ岩(Upside down stairs of Saksaywaman)

サクサイワマンは南米・ペルー、インカ帝国の遺跡で、ナンコ・カパック二世がスペイン軍と戦った要塞とされる(現在は諸説あり)。
「逆さ岩」は、砦から100mほど離れた場所にある、4階建てのビルに相当するほどの巨大な岩石。重さは推定20,000t。
中が削られたり、くり抜かれたりしており、人の手によって加工された様相を呈する。
岩の内部には階段や廊下、らせん状の模様やソファのようなものが作られているが、
それらの家具は奇妙なことに天地が逆さまの状態になっている。
岩をくり抜いて家のように使っていたとも考えられるが、
家具全てが天井につけられているというのは不自然であり、違う目的で作られたという説もある。
また、この大岩を逆さまに返すほどの自然現象が起こったならその痕跡が辺りで見つかる筈だが、その様子もないそうだ。
正確な加工時期は分かっておらず、推定5000年前程度のものとされている。


132
オリャンタイタンボの屏風岩(The walls of Ollantaytambo)

「逆さ岩」と同じく南米ペルー、インカ帝国の遺跡にある構造物。
南米大陸周辺に興ったプレ・インカ文明の1つであるクスコ王国を1200年頃にケチュア族が建国し、
その文化を受け継ぎ興ったのがインカ帝国とされている。

この遺跡には6枚岩が連なる屏風岩があり、1枚平均の高さは4m、重さは50t~80t。
屏風岩が建てられているのは高さ150mほどの丘の上だが、材料を切り出したと思われる場所は、
丘の下を流れるウルバンバ川の向こう岸の山の中、高さ330mの地点にある。
インカ帝国には巨石を使った遺跡が数多く残されており、加工技術も謎のままで、表面が非常になめらかに加工されているものが多い。
また、合計300tの石を人力で切り出し、運び、並べて建てるのは不可能に近いため、その面でもオーパーツに挙げられている。
(重さ自体は人力で運搬可能と思われるが、山の斜面では木のコロが使えないと言われる)


133
イースター島のモアイ(Moai)

チリ領のイースター島には、モアイと呼ばれる人面を模した石造彫刻がある。
多くの場合海に背を向けて、正確にはかつての住居跡を囲むように多数建てられている。
大きさは3.5m、重量20t程度のものが多いが、最大級のものは20m、重量は90tに達する。
島で産出される凝灰岩でできており、建造中に放置されたものも含め約900体ある。
モアイの様式は造られた時代によって変化している。

初期のモアイとされるものは3m程度と小型のものが多いが、時代が進むにつれ大型化していき、顔も後期には細長くなっていった。
一部のモアイには「胴体」があり、後期の特に大きなモアイは「赤い石」を頭上に乗せ、一部のモアイには「目」があった。
モアイという言葉の語源と意味は諸説あり特定に至っていないが、それ以上の謎は建造目的だった。
近年の調査で台座から人骨が多数発見され、「モアイは墓碑だった」という説が有力になりつつある。
独特の形状についても起源は未解明で、像の運搬手段とともに特定には至っていない。


136
<オーパーツ(工芸品以外)>

ストーンヘンジ(Stonehenge)

イギリス・ロンドンから西に約200kmのソールズベリー周辺に位置する環状列石(ストーンサークル)。
アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時には既に存在していたといわれる。
ストーンヘンジは、円陣状に並んで直立した巨石と、それを囲む土塁からなる。
考古学者はこの巨石が紀元前2500年~紀元前2000年の間に立てられたと考えているが、それを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。
遺跡の目的は、「太陽崇拝の祭祀場」「古代の天文台」「ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂」など様々な説が唱えられているが、未だ結論はでていない。

また、建設技術についても謎が多く、
「巨石の運び方」(丸太と縄で運ぶ/水に浮かべて運ぶなど)、
「石の組み方」(巨石を立てる技術はあったと思われるが、石の上に石を寝かせる技術)、
「労働力」(何百日~何十年かかる年数、労働者、組織力などの謎)など、完全に判明していない部分も多くある。
この地では巨石のモニュメント以前にも数々の古代建造物が造られており、
それらから当時の生活、文化、思想を紐解くことが重要な鍵とされている。


137
大湯環状列石

大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の配石遺跡。
「日本のストーンヘンジ」とも呼ばれる。
昭和6年(1931年)に発見され、約130mの距離をおいて東西に対峙する野中堂と万座の環状列石で構成されている。
山岳丘陵の末端にのびる台地の先端部に造られており、河原石を菱形や円形に並べた組石が二重の環になって配置されている。
外輪と内輪の中間帯には一本の立石を中心に細長い石が放射状に並び、
その形から「日時計」といわれており、万座・野中両方の遺跡にある。
大湯環状列石が作られた目的に関しては諸説あるが、近くに構造が似ている遺跡があり、
これは墓であることが明らかになっているため、大規模な共同墓地ではないかという説が有力視されている。


138
石舞台古墳
奈良県明日香村にある7世紀頃に作られた古墳。
元々は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土は失われ、現在は巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。
埋葬者は蘇我馬子が有力視されており、「蘇我馬子の墓」と呼ばれる事もある。
施設は両袖式の横穴式石室で、30数個の石が積まれ、総重量は2,300tに達すると推定されている。
特に天井石は約77tとかなりの重量であり、古墳の製作工程は様々な仮説が挙げられているが、
中には当時の技術的に不可能であるといった説も存在する。


王位石
王位石(おえいし)は、長崎県野崎島の沖ノ神島神社にある巨石。
野崎島は長崎県五島列島の北東部に位置する島で、住民表が1人分だけ置かれているほぼ無人の島。
旧石器時代から戦国時代にかけての遺跡や遺物が多数出土している事から、太古より人が住んでいたとされる。
沖の神島神社は飛鳥時代にあたる704年に建てられた社で、五島で最も古い神社といわれている。
王位石は頂上までの高さ24m、両柱の幅12m、頂上の巨石は5m×3mという大きな石の構造物で、
この奇妙な石の配置は自然の産物か、人の手によるものかは不明とされている。


139
ナスカの地上絵(Nazca Lines)

南米・ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原の地表面に描かれた幾何学図形や動植物の絵。
動植物の地上絵は1939年に考古学者のポール・コソックが発見。
その後ドイツの数学者マリア・ライヒェが終生この地に住み、彼女を中心として地上絵の解明作業と保護が行われるようになった。
あまりにも巨大な絵が多く、空からでないとほとんどの絵の全体像の把握が難しい。
描き方もそうだが、なぜこのような巨大な地上絵を描いたのかということが大きな謎となっている。
巨大な絵を描く方法としては、
「十分な大きさの原画を描き上げた上で適当な中心点を取り、そこを起点にして放射状に原画の各点を相似拡大する」
という「拡大法」で描かれたという説が挙げられている。
成層圏ほどの高度しか見えないものもあるため、その方法で本当に出来るのかと指摘されたこともあるが、
地上絵の端にあった杭の存在や、地上絵の縮小図の発見などを考えると拡大説が妥当と考えられている。


141
ナスカの地上絵 その2

日本では小学校の算数の総合学習として、
児童による画鋲2個と糸1本のみを使ったナスカの地上絵の再現(実物大再現を含む)を、グラウンドや体育館で20回以上実践。
児童15名~160名により、いずれも開始後150分以内で再現に成功した。
このような研究結果から、日本の小学校程度の算数知識があれば地上絵の描画は充分可能であることが証明されている。
地上絵の性格については様々な仮説が提唱されており、
「暦と関連する説」「貧民への報酬のための公共事業説」「雨乞い儀式利用説」などが挙げられている。
動物を描いた地上絵は、46mのクモ、96mのハチドリ、55mのサル、65mのシャチ、180mのイグアナ、135mのコンドルが挙げられる。
現時点で最大のものは、ペリカンかサギ、もしくはフラミンゴを描いたと推測される285mの鳥類の絵。
花や木々、装身具や織物のような日常生活の道具を描いたものや、
宇宙飛行士と呼ばれているもの、片手が4本指の手など、不可思議な図柄もある。
2015年7月には、山形大学から新たにリャマなど24点の地上絵を発見したと発表があった。


143
中東の地上絵(Wheel stone structure in Middle East)

地上絵といえば「ナスカの地上絵」が有名だが、
中東のシリア・ヨルダン・サウジアラビアなどの国でも大規模な地上絵が発見されている。
これらの地上絵は衛星による航空写真技術で発見され、描かれているのはストーンホイール(石の車輪)と考えられている。
作られた時期は2000年前と推定されており、ナスカの地上絵より古い可能性も指摘されている。

絵の存在は1927年にイギリス空軍のパイロットが発見していたといわれるが、
当時は報告のみが学誌に掲載されただけで、長らくその存在が忘れられていた。
また、地元の遊牧民ベドウィン族の話では、これらの遺跡を「老人の仕事」と呼ぶそうで、地域の人々は地上絵に気づいていた可能性もある。
絵は直径は25m~70mほどあるそうで、構造物にはカイト形(動物を追い詰めるための構造)、
ペンダント形(墓から続いている石塚の列)、詳細不明の何百フィートにも渡って蛇行する壁などがある。


154
ミステリー・サークル(Crop Circle)

イギリスを中心に世界中で報告されている、穀物が円形(サークル形)に倒される現象、あるいは、その倒された跡。
「円」が複数組み合わされた形状や、さらに複雑な形状のものもある。
日本では「ミステリー・サークル」と呼ばれているが、
海外では「Crop Circle」(クロップ・サークル=穀物の円)と呼ぶのが一般的。

1980年代に謎の現象として世界的に注目され、宇宙人やUFOの仕業とする説など、さまざまな仮説が示された。
また、90年代に入ってからは製作者による告白や懐疑派による検証が進み、人為的なものという考えが主流となっている。
しかし、現在でも説明のつかない多くのミステリー・サークルが発見されており、中には本物が紛れ込んでいるという説も存在する。
ミステリー・サークルについては、かなり詳しい調査が行われている↓
ttp://www.nazotoki.com/crop_circle.html


155
ミステリー・サークル その2

1991年、イギリスに住むダグ・バウワー、デイヴ・チョーリーという2人の老人が、
「自分たちがミステリー・サークルを作った」と告白した。
2人によれば、彼らは1978年頃からミステリー・サークル作りを行うようになったそうだ。
最初は年に1つ~2つ程度だったが、1982年頃から話題になり始めると作る個数を増やし、最終的に250個以上作ったと見られる。
しかし深夜での作業の上、高齢による体力の低下や、ダグの深夜の外出に疑いを抱いた妻のアイリーンが難詰したため、妻に作業を告白。
途中から彼女も加えた3人での作品作りになり、ミステリー・サークル信者に混じりアイリーンも「作品」の出来ばえを喜んでいたという。
彼らが自分たちの仕業だと告白した理由は、
「クロップ・サークルを宇宙人や超常現象と結びつける人があまりに増えすぎたせいで、
国家を始めさまざまな公共機関でこの現象が議論され始め、自分たちのせいで税金が無駄にされると考えたから」である。
また、その後2人の老人は簡単な道具と人力によって立派なミステリー・サークルが比較的短時間で作れることを実演してみせた。


157
ミステリー・サークル その3

現在においても、ミステリー・サークルは超自然的・或いは宇宙人によるものという話題が度々挙がる。
その根拠となる仮説(A)と異論(B)の一部を、記事サイトを参考に箇条書きしておく。

[A]サークル周辺には人の足跡がない
[B]重機の通り道を使う方法、棒を使った軽い高跳びの方法、
円と円を結ぶ細い線を作り、できてしまった足跡を倒した草で隠すなどの方法が告白されている。

[A]「本物」のサークルにある作物は折れずに曲がっている
[B]本物とされたサークルでも実際は茎が折れている部分があり、人が作る場合、踏み板で圧力が分散して茎が折れないことも多い

[A]「本物」のサークルでは、作物の内部で細胞レベルの変化が起きている
[B]この話ではW. C.レーベングッドによる実験がよく挙げられる。
しかしこの実験は二重盲検法が用いられておらず、相関関係と因果関係を混ぜていたりと初歩的な間違いが多いとされる

[A]「本物」のサークルでは、倒れた作物が三つ編み状に織り込まれている。
[B]ダグとデイブが作ったサークルでも、
板を踏む(板を回転するのがコツ)だけで自然に作物が三つ編み状に織り込まれていくことが確認されている。

[A]白い発光体がミステリーサークルを作成する瞬間がビデオで撮影されている
[B]これは「オリバーキャッスルビデオ」と呼ばれるもので、後の調査によりCGを使った合成であることが判明した
など

現在では円形にとどまらず、難易度の高いサークルが作られている

ダグとデイヴ以外にも、彼らに影響されて発足したチームが多く存在するそうだ


160
ピラミッド(Pyramid)

エジプトや、中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称。
特に「ギザの大ピラミッド」(クフ王のピラミッド)は、
古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つであり、現存する唯一の建物として有名。
ピラミッドは未だ多くの謎に包まれた、世界有数のミステリーの1つである。

古代エジプトのピラミッドは巨石を四角錐状に積み上げ、中に通路や部屋を配置した。
一般的に奴隷の築いた王墓とされてきたが、現在では建設現場に居住する専属の労働者がいたことが判明している。
農業ができない間、農民を労働力として使う「救済土木事業説」もあるが、それに関する論文などは存在しない。
ピラミッドが「いつ」「誰が」「どうやって」作られたかという点についてはおおむね解明されていくものの、
「なぜ」作られたかについては定説が無い。

最も有名な「王墓説」は王家の墓が別に発見されることから否定される傾向にあり、
「日時計説」「穀物の倉庫説」「宗教儀式神殿説」「天体観測の施設説」も後の研究や物証によって有力説になりにくい現状がある。
また、仮説は実証を伴わないアイデアに留まる傾向が多く、
そのため一周回ってやはりピラミッドは「王墓」であるという説明が続けられていることが多い。


161
ピラミッド その2

ピラミッドの建設方法については、これまでいくつか仮説が立てられた。
約2500年前にギリシャの歴史家ヘロドトスがこの地を訪れた時にピラミッドの建設法を書き残しているが、
彼がここを訪れたのは建設2000年後のことで、「建設には10万人が20年かかった」という記録は疑問が持たれている。
従来、石材を積み上げるにあたっては、「作業用の傾斜路が作られ、その斜面を運び上げられた」と考えられてきた。
また、「長大な一本道が使われていた」という説もあった。
しかし、どちらにしても数トンの石をただの傾斜路で引き上げることができるという説明にはなっていないとされる。

他の仮説として、
「木の杭を使って石を切り出す⇒イカダと石を縛りつけてナイル川を下り、陸地では丸太を敷いてその上を転がして運ぶ。
最初に一番下の段を作り、その横に砂を盛り上げて斜面を作り、その上を引いて二段目三段目…と積み上げていき、それに伴い斜面もどんどん高くしていく。
そして最後に頂上に石を置いて砂をどければ完成する」というものがある。
一見、この方法で作れそうにも思えるが、実際には不可能であることが判明している。
また、ピラミッドの地中に隠れた基礎部分は四角柱の構造物だが、
地底何十メートルあるいは何百メートルに渡ってその建造が続いているのかは未だ確認されていない。


162
⇒三大ピラミッドの配置(Placement of Great Pyramids)

三大ピラミッドは、エジプト・ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。
隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっている。
造営時期は紀元前2500年頃とされており、
「クフ王のピラミッド」(ギザの大ピラミッド)、「カフラー王のピラミッド」、「メンカウラー王のピラミッド」の3つから成る。

これらのピラミッドの配置には、オリオン座の三ツ星を表したものであるとする「オリオン説」がある。
実際にナイル川を天の川に見立てると、三大ピラミッドの位置がオリオン座の三ツ星の位置とほぼ重なり、
さらに三ツ星と三大ピラミッドを重ねるとその配置が一致するという。
しかし、学会では否定的な意見も多い。
また、火星に三大ピラミッドと配置が全く同じの構造物があるという話もあるが、こちらの正確性は不明。


164
ギザの大スフィンクス(Great Sphinx of Giza)

スフィンクスは、エジプト神話やギリシア神話、メソポタミア神話などに登場する、
ライオンの身体と人間の顔を持った神聖な存在、あるいは怪物。
「ギザの大スフィンクス」は三大ピラミッドのそばにある巨大な石像で、スフィンクスといえばこれをイメージする事が多い。

定説では紀元前2500年頃、第四王朝カフラーの命により第2ピラミッドと共に作られたとされる。
根拠としては、発掘された碑文の最後に「Khaf」の文字があった事、スフィンクスの顔がカフラーに似ている事などが挙げられる。
一方で、碑文にはカルトゥーシュ(王の名を囲む円)がないので王の名かどうかは疑問であり、
現存するカフラー像とスフィンクスはあまり顔が似ていないという反論がある。
また、体に比べて顔の大きさのバランスが悪いとして、顔だけ後になって彫りなおされたという主張もある。

考古学者以外では、自然科学のロバート・ショックが、スフィンクス本体や周囲の囲いに降雨による水の浸食が認められる事と、
かつてエジプトで長い期間に大量の降雨があった時代から、紀元前7000年頃(ピラミッドより前)に建造されたという推測を出している。


165
スフィンクスと侍の写った写真

1998年に河田家で発見された写真。
幕末期、交渉のためヨーロッパを訪問した外交奉行・池田筑後守長発たちの一行が、
途中エジプトを経由し、その際ギザのピラミッドを訪れている。
この時、スフィンクスを背景に記念写真が撮影された。
写真には24人ほどの和服姿の日本人が写っている。また、スフィンクスに登ろうとした侍もいたとみられる。


167
ボスニアのピラミッド(Bosnian Pyramid)

世界最古のピラミッドは、
紀元前2700年に建てられた古代エジプト第3王朝時代の「ジェセル王のピラミッド」(サッカラのピラミッド)とされている。
しかし、東欧のボスニア・ヘルツェゴビナから、紀元前1万年前に建てられたピラミッドが見つかったという。
2006年にNational Geographicがこのニュースを取り上げた事で有名になった。

地元のアマチュア考古学者であるSemir Osmanagic氏が同国の町、ヴィスコにある小さな丘をピラミッドであると主張しており、
それは全部で5基が確認されているという。
外観はただの山のようだが、地下には計10マイル以上の複雑なトンネルが存在しており、これが根拠の1つとなっているそうだ。
また、建設時期は1万2000年前と推定されており、これが証明されれば世界最古の記録を大幅に更新することになる。
この主張について、考古学者たちは異論を唱えている。
英語版Wikiでは、
Osmanagic wishes to excavate in order to "break a cloud of negative energy, allowing the Earth to receive cosmic energy from the centre of the galaxy"
などの(違う意味で)ヤバそうな記述が見られる。


168
南極のピラミッド(Pyramids in Antarctica)

米国の研究者らが中心となって構成されている国際チームから、
「南極大陸で氷に覆われた古代のピラミッドを3つ発見した」という発表があった。
これは2012年の情報らしく、Youtube上に「Ancient Pyramids Found In Antarctica?」というタイトルで写真が載せられている。
詳細は一切不明だそうで(この機関の詳細も不明)、3枚の画像が公開されるのみとなっている。

調査はアメリカとヨーロッパにある8つの探検隊が合同で行ったものであるとされており、
発見された3つのピラミッドのうち2つは、海岸から内陸に16㎞入った場所にあり、もう1つは海岸線に非常に近い場所にあったという。
一般的に南極大陸は1000~2000mの厚い氷の層となった氷雪(氷床)に覆われているとされているので、
その上にピラミッドがあるとすれば近年に作られたもの、または氷床から外れた部分に建てられたという事になる。


169
サクサイワマン遺跡の石壁(Stone walls of Saksaywaman)

サクサイワマンは、南米にあるインカの遺跡の1つ。(上述の「逆さ岩」も参照)
この地帯の石壁は、インカ帝国の9代皇帝パチャクティの命によって1438年以降に建設が開始されたといわれている。
「サクサイワマン城砦」とも呼ばれ、砦として作られたという説もあるが、
宗教施設という説や、双方を兼ねた建造物などの諸説があり、確定はしていない。

遺跡は巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、
幅数百メートルの平地を挟んだ南北の丘に築かれている。
大きな石組みは200t~250tといわれ、それぞれの石がカミソリ1枚も入らないほど隙間なく、精巧且つ頑丈に組み合わせられている。
鋭利な切断面を持たせるように石を加工しなければこのような壁は作れず、
石を打ち付けての成形では限度があり、人力での加工は不可能という説がある。


196
>>169
岩盤の中を通る狭い水路とかも、ここやったっけか?
ああいうのもどうやって造ったのか全然解らんらしいけど


198
>>196
それはクンベ・マヨやね 同じペルーだけど


170
珊瑚の城(Coral Castle)

アメリカ・フロリダ州マイアミから最南端のキーウエストヘ向かう途中にある、珊瑚で作られた城。
この城を作り上げたのはラトビア出身のEdward Leedskalninという男性。
1900年代初め、彼は当時16歳の婚約者Agnes Skuvstに、結婚式の前日に婚約を破棄されてしまう。
傷ついた彼は生まれ故郷を離れ、各地を転々としながらフロリダに辿り着き、
この地で彼女との結婚生活を夢見て30年に及ぶ珊瑚の城の建造に没頭した。

Leedskalninは平均30tと言われる珊瑚岩を、誰の手も借りず、木片と鉄くずから作成した工具で作り上げたと言われている。
工法も彼独自のもので、例えば表玄関の回転扉は約9tの珊瑚岩から作られているが、回転軸が精密に計算されていて軽く押すだけで開く。
城に使われた珊瑚の総重量は1,100tとされており、小柄な男性だった彼がどうやって運搬・加工を行ったのかは未だ謎が多い。
また、Leedskalninは質問に答える形で「インカ人や古代エジプトのピラミッド建設者が知っていた石細工とテコの秘密を再発見した」と述べている。
彼は奇人変人という扱いも受けており、語られた製造過程もどこまでが真実なのかは分からない。
車のエンジンを改良した道具を使ったなどの仮説もあるが、未だ解明には至っていない。


171
>>170
オーストリアだったかに、小石で似たようなことやったのがおるよな


174
>>171
おお、サンガツ
オーストリアかは分からないけど、フランスに1人で作られた石造りの建物があるみたいやね

「シュヴァルの理想宮」(Palais ideal of Cheval)
フランスの郵便配達員、フェルディナン・シュヴァルが33年の月日をかけ、1人で完成させた建造物。
現在、フランス政府により国の重要建造物に指定されている。
石の運び方や建造方法は判明しているが、彼は素人であり、独学とイメージ、そして飽くなき情熱でこの理想宮を完成させた。


178
>>174
おおこれやこれ
こういう人はきっと幸福なんやろなあ


172
ニューグレンジ(Newgrange)

アイルランド・ミース州のブルー・ナ・ボーニャ遺跡群にある羨道墳の1つ。
1699年に発見された世界的に有名な先史時代の遺跡の1つであり、アイルランド島で最も有名な遺跡とされる。
紀元前3100年~紀元前2900年の間に作られた。

1年で最も日が短い冬至の明け方、
太陽光が長い羨道(玄室に続く通路)に真っ直ぐ入射し、部屋の床を短時間だけ照らすように建設されている。
現在は日の出から4分後に日光が射し込むようになっているが、
地球の歳差に基づいて計算すると、5000年前には日の出と同時に日光が射し込んでいた。
太陽光は、このために考案されたと思われる「ルーフボックス」と名付けられた入り口すぐ上の開口部から射し込む。
考古学界ではニューグレンジは墓だとする説が優勢だが、天文学や工学、宗教的な施設という説も挙げられており、目的は不明。


173
>>172
天文学的なタイミングの良さが絡んでくると興奮してきちゃうヤバいヤバい
やっぱ季節に対する感覚が鋭敏なんすねぇ


175
モヘンジョ=ダロ近くのガラスになった町(Destroyed City by Atomic Bomb nearby Mohenjo-daro)

モヘンジョ=ダロは、南アジア・パキスタンにあるインダス文明最大級の都市遺跡。
紀元前2500年~紀元前1800年にかけ繁栄した。
古代核戦争の研究者デビッド・ダヴェンポートは、遺跡から5kmほど離れた場所で、
現地の住人が「ガラスになった町」と呼んで近づかない場所を訪れたと報告している。

そこは黒いガラス質の石が800m四方をびっしり覆っている場所で、石はテクタイト(或いはトリニタイト)とされている。
付近では溶けてくっついたレンガや、ねじ曲がったり気泡が混じってガラス化した壺の破片などの遺物も見つかったそうだ。
このように広範な範囲の砂が溶けてガラス化するという現象はこれまで自然界では確認されておらず、
今のところ地表で核実験が行われた場所(砂漠)でしか見つかっていないという。
また、壺が原形を保ちながら溶けかかった状態で固まるという現象は、超高温の熱を極めて短時間に受けることを想定しない限り考えにくい。

ダヴェンポートはモヘンジョ=ダロで発見された遺物の分析を依頼した結果、
1000度~1500度の高温で短時間に加熱されたという結果が出たと報告している。
これらの研究結果から、
「有史以前の地球に近代人の知らない超古代文明が栄えていたが、核戦争により滅亡した」とする「古代核戦争説」(Ancient Nuclear Warfare)が提唱された。

モヘンジョ=ダロは現地の言葉で「死の丘」を意味する。


176
上述の研究結果に対しては異論も唱えられている。一部を箇条書きしておく

・モヘンジョ=ダロが核攻撃されたのであれば、
攻撃した側の文明に核兵器を製造する高度な技術がある筈なので、この地に超古代文明を求めるのは無意味である、という意見がある。

・核爆発の後遺症があまりにも局所的で、一部のレンガのガラス化では核爆発の後遺症を完全に説明できない。

・ダヴェンポートは「ガラスになった町」について、地元でタブーとされている場所として正確な場所を明らかにせず、第三者は確認していない。

・インダス文明を研究する考古学者の近藤英夫教授は、NHKの取材でガラスになった町について
「モヘンジョダロは何度も訪れたが、見たことも現地で話を聞いたこともない」とコメントしている。
もし「ガラスになった町」が実在しないのであれば、そこから発見されたとされる遺物の信憑性も失われることになる。

・数十体の遺体が見つかっているが、モヘンジョ=ダロはインダス文明期以降も洪水や火災が原因で興亡を繰り返していたことが判明しており、
さらに一時期はスラムと化していたこともあったので、放置された氏体が見つかってもおかしくはない。

このほか、古代核戦争を想起させるものとして、古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」「リグ・ヴェーダ」が挙げられており、
ここには想像だけで書かれたものとは思えない、核爆弾が被弾した状況によく似たシーンが描かれているといわれる。


199
>>176
やっぱ場所を誰も知らんっていうのがなあ


177
融解した土器(Melted Earthenware)

モヘンジョ=ダロで発掘された、融解した土器とされるもの。
1000度~1500度以上の高温と冷却が短期間に起こり、火ぶくれがそのまま固まって気泡となっているそうだ。
モヘンジョ=ダロは、高温の蔵焼きレンガを使って建物を建設していたが、それでは急激な温度変化の説明がつかないとされる。
また、土器が高温によりガラス質化した写真もある。穴があいているのは、高温で気化してしまったからのようだ。

⇒核爆発を受けた容器の例

日本には、実際に核爆発で融解・加熱された容器が多々存在する。
広島市にある広島平和記念資料館には、これらの遺物同様、
半ば溶けかかりながらも原形を留めたガラス製の一升瓶や、表面のみが溶けた瓦などが展示されている。

⇒古事記にある核爆発の描写

話半分で聞くべき内容だが、面白かったので載せておく。
古事記の上巻、くに譲りの段の一節に、
 「建御雷男(タケミカヅチノオ)神、十掬ノ剣ヲ浪ノ穂ニ逆ニ刺シ立テソノ先ニクミ坐テ」という記述がある。
ある書籍でこれを著者のイメージとして描いたところ、核爆発のように見えるとして話が広まった。


179
マチュ・ピチュ(Machu Picchu)

南米・ペルーの山の尾根、標高2,430mにある15世紀のインカ帝国の都市遺跡。
アンデス文明は文字を持たないため、この遺跡が何のために作られたのか、首都との関係など、その理由は分かっていない。
山裾から遺跡の存在が確認できないことから、しばしば「空中都市」などと称される。
また、マチュ・ピチュはケチュア語で「老いた峰」を意味する言葉で、本当の都市名ではない。

遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。石の建物の総数は約200戸。
建造方法は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えられている。
しかし、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運んだかは未だ謎であるとされている。
以前は「突然人が消えた文明都市」という扱いもあったが、この都市は通常の都市ではなく、
王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や田舎の別荘といった種類のもので、住人は最大でも750名しかおらず、
雨季や王族が不在の時は、ほんの一握りの住人がいたのみと判明している(少数の男女の遺体も見つかっている)。

最大の謎として、「なぜこのような急峻な山の上に造ったのか」というものがあるが、
今のところ宗教的な理由(太陽が近いなど)が推測されているに過ぎず、解明には至っていない。


180
沖縄県与那国島の海底遺跡/与那国島海底地形

沖縄県八重山諸島にある与那国島南部の海底で発見された構造物。
1986年に、ダイバーが海底に巨大な一枚岩を発見したのが最初と言われている。
一枚岩は周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので、人工的に切り出したような跡や、階段状になった部分、人が歩けるほどの通路らしき部分が存在することが判明した。
1992年以来、琉球大学理学部教授(現:琉球大学名誉教授)の木村政昭を中心として調査が行われ、
1998年には沖縄県文化局に「遺跡発見届け」が提出されている。
沖縄県側では、人が関与した痕跡があると判断できないとの理由で遺跡としては認定していない。
観光的には「遺跡ポイント」として売り出しており、遺跡であるかどうかはさておき、与那国島の貴重な観光資源となっている。

この地形については、「人工的な構造物である」とする立場と、「自然地形である」とする立場からいくつかの説がある。
しかし、遺跡説が考古学や地質学関連の学会で提示されていないこともあって、
両者の議論は沖縄県内の学者によるものにとどまっており、関連学会においては学術的な検討の余地にも入っていない。
人工的な構造物説を国内の学会において発表しているのは木村教授のグループのみであり、その学会も考古学や地質学を専門とするものではない。
また、木村教授に対しては、考古学的・地質学的調査が未実施、論文発表がない、精確なデータを提出していない等の批判がある。


181
沖縄県与那国島の海底遺跡/与那国島海底地形 その2

発見者のダイバー、新嵩喜八郎氏は「古代文明遺跡説」も提唱している。
この地形が遺跡であれば、水没したのは(動植物の分布や鍾乳石等から)前回の氷河期が終わって海面が上昇した時期である、
という説があり、これが事実ならばこの遺跡は「1万年以上前の世界最古の古代遺跡」ということになる。
また、新嵩喜八郎氏主催の与那国海底遺跡博物館のウェブサイトでも、
約1万年前の海面上昇により水没したことがはっきりしてきたと記述されている↓
ttp://www.yonaguni.jp/yum.htm

もう1つ、興味深い噂として、周辺の「サンニヌ台」「軍艦島」(軍艦岩?)「立神岩」「海底遺跡」が、
グーグルアース上で見ると一直線上に存在し、これら全てが連続した石切り場であるという話がある。


182
バルト海の海底に沈む物体(Baltic Sea anomaly)

2011年、北ヨーロッパに位置する地中海のバルト海で、
難破船やヴィンテージのシャンパンなどを探す発掘チーム「オーシャンX」が海中をソナースキャンしている最中、
円形の奇妙なオブジェクトを発見したと発表した。
海面から87m下に、60mの直線、及び円形のコックピットの様な物体が見つかっており、
その後ろには何かが海に墜落し、ひきずったようなラインが300m続く。
このことから一部では物体がUFOではないか、もしくは旧ドイツ軍が廃棄した兵器ではないかという憶測が飛び交った。

イスラエルの研究者の発表によると、構造物にはリモナイトやゲータイトなどの金属も見つかっており、人工物の可能性があるという。
また、物体は花崗岩に覆われており、ストックホルム大学の海洋地質学者の話によると、
そこから得られた情報によって14,000年前のものではないかと推測されている。
ネットユーザーからは映画「スターウォーズ」に登場する宇宙船「ミレニアムファルコン号」に似ているという小ネタも投稿された。
現在まで正体は明らかになっていないが、肝心の発見者「オーシャンX」が調査を停滞させているといった話もある。


183
サントリーニ島のアクロティリ遺跡(Acroteri on Santorini Island)

サントリーニ島はエーゲ海南部に位置するギリシャ領の島で、断崖の上にある白い建物群などは有名な観光地となっている
島内の南部ではヨーロッパで最も古い文明の1つといわれるミノア文明の大規模な港湾都市遺跡「アクロティリ遺跡」が発見・発掘されており、
その高度さから、古代ギリシャの哲学者プラトンが伝える「一夜で沈んだ高度な文明社会」という「アトランティス大陸伝説」のモデルではないかとして有名になった。

本島であるティーラ島(サントリーニ島)は紀元前1628年頃、海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)によって島の半分が吹き飛んだともいわれる惨状にみまわれた。
この爆発的噴火はエーゲ海一帯に惨禍をもたらし、プラトンが提唱したアトランティス伝説の内容に大きな影響を与えたといわれている。
また、幻の大陸アトランティスのもう1つの有力なモデルが、南にある「クレタ島」で、ここでも本島と共にミノア文明(クレタ文明とも呼ぶ)が栄えていた。
ミノア文明の背景を明らかにするには「線文字A」(別項目参照)の解読や、宮殿の情報の整理、聖域などについての更なる発見が必要とされており、今も研究が続いている。


187
アトランティス(Atlantis)

古代ギリシアの哲学者プラトンが、著書「ティマイオス」「クリティアス」の中で記述した、
紀元前10,000年頃に存在した大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国。
強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。
両作品は、プラトンの師匠ソクラテス、数学の教師ティマイオス、曾祖父クリティアス、政治家・軍人ヘルモクラテスの4名の対談の形式で執筆されている。

1882年、アメリカの政治家イグネイシャス・ドネリーが著書「アトランティス - 大洪水前の世界」を発表したことにより、
アトランティスは謎の大陸伝説として一大ブームとなり、更にオカルトと結びつくことで多くの派生を生んだ。
近年の研究では、火山噴火が影響して紀元前1400年ごろに突然滅んだサントリーニ島の「ミノア王国」がアトランティス伝説のもとになったとする説が提唱されている。
また、「ヘラクレスの柱」(一般にはジブラルタル海峡)をダーダネルス海峡であるとし、古代トロイア文明と重ねる説もある。
しかし、大西洋のどこかにアトランティスがあると信じる人間も未だ存在する。

NHKの番組「幻解!超常ファイル」では、「人が堕落すると国が滅びる」というプラトンの思想と、
当時プラトンの祖国アテナイは戦争に走り、国民は法を守らなくなるという状態になりつつあったため、
それに対する警告の意味でこの伝説を書いたという説を紹介している。


188
ナン・マトール遺跡(Nan Madol)

ナン・マトール遺跡は、オーストラリア近く、ミクロネシア連邦のポンペイ島にある13世紀~15世紀の遺跡群。
Nan Madolは「天と地の間に広がる空間」を意味する。
1931年に「失われたムー大陸」を著したジェームズ・チャーチワードが、ナン・マトールこそが太平洋上に位置し、
高度な技術と権力があったムー大陸(Mu)の聖都であると述べた。
ムー大陸は1万2000年前に突如太平洋の海中に水没した大陸と言われている。

この発言でナン・マトールは世界的に知られることになり、現在でも観光客が訪れる遺跡名所となっている。
ナン・マトールの巨石群が建造されたのはシャウテロール王朝時代であり、
この海域で約1000年かけて完成させたとも、不思議な力により一夜にしてできたとも伝説が残っている。
この海上都市(複数の島々に渡る)の玄武岩巨石群をどこからどのように運び、どのようにして緻密に積み上げたのかは解明されていない。
観光ガイドには外敵からの要塞の目的でこの都市が造られたとも書かれているが、都市が建造された目的は未だ分かっていない。


189
ケニア・エンゲディ遺跡(Ruins of Gedi)

東アフリカのケニア、マリンディ奥深くの森林地帯にある遺跡。
未だに多くの謎が残る失われた都市として、ジャングルの中にひっそりと佇んでいる。
一部の城壁、柱と土台のみを残し、3000人のコミュニティーが存在していたと推定され、当時としてはかなり高度な文化があった。
1948年に発見されて以後10年間にわたり発掘調査が行われた結果、
ヴェネツィアのものと思われる遺物、スペイン製の遺物も発掘されており、ヨーロッパと貿易をしていたことが判明している。
さらに、中国の明王朝時代の硬貨や花瓶、インド製のランプも発掘された。アラブ圏のイスラム系のモスクも存在していたという。
このような高度な文明を持つ都市がなぜ消失したのかという原因に関しては、考古学者たちの間で論争が行われている。


204
>>189
こんな場所にも凄い文明あったんやね


190
オレゴン・ヴォーテックス(Oregon Vortex)

アメリカ・オレゴン州ゴールドヒルにあるミステリースポット、娯楽施設、観光名所。
入場料は12.5ドル(約1500円)。
施設の所有者は超自然現象の起こる地だと主張しているが、人間の錯視を利用したものという懐疑的な見方もある。
物体の重さが変わったり、光が屈折したり、磁気が乱れたり、箒が自立したりと様々な現象が確認されている。
一部トリックアートを用いて誇張した宣伝もされアミューズメント化しているが、
実際に解明できない現象も起き続けているという。

人間は「建物の壁は垂直で、床は水平だ」と無意識のうちに思いこんでいるが、その前提が崩れていると感覚的な混乱をきたす。
オレゴン・ヴォーテックス内にある多くの建物には、このような錯覚を起こさせるための様々な仕掛けが施されている。
同じような施設として、岐阜県の「養老天命反転地」、ペンシルベニア州の「ローレル・ケイバーン」などが挙げられる。

立つ位置によって身長が変わる柱。錯視によって互いが直線上で向き合っているように見える(動画参照)
ttps://www.youtube.com/watch?t=17&v=743oy55RqX4


191
弾丸が貫通した頭蓋骨の化石(Rhodesian Man With Bullet Hole In The Head)

1921年、アフリカ南部・ローデシア(現:ザンビア)のブロークンヒル鉱山で働いていた労働者が、人間の骨の化石を発掘した。
化石となった人物の頭蓋骨には、弾丸のようなものが貫通した痕跡が残っていた。
化石は分析の結果ネアンデルタール人と同じ種類と判断され、やがてアフリカを代表する化石人類「ローデシア人」と名付けられた。

穴は綺麗でなめらかな状態で、、矢じりや石器などの原始的な武器でつけられた傷、獣に襲われた傷とは考えにくいものだった。
しかし、ローデシア人の化石が埋まっていたのは地下18m、地層は推定10万年前のもので、当然銃火器は開発されていない。
素人考えでは、例えば何らかの自然現象によって高速で飛んできた石ころが頭蓋骨を貫いた…という仮説が思いつくが、定かではない。
ベルリンの法医学者が調査したところ、高速で発射された物体が貫通した痕という結論が出たという話や、
穴には治癒した痕があるため外傷性のものとは考えにくい、といった話も挙げられている。


192
白亜紀の人間の指(Cretaceous Finger)

チャールズ・ダーウィンは1859年に「種の起源」を発表した。
進化論は時代と共に支持されていき、
人類をはじめとする動物は環境に応じてその能力や形態を変化させながら現在まで生き延びてきた、という説が現代では浸透している。
そんな進化論を揺るがしかねないオーパーツが存在するといわれる。

1980年代、アメリカ・テキサス州グレンローズから数km離れた場所で、奇妙な化石が出土した。
化石は5cmほどの大きさで、人間の指先の様な形をしていた。
同じ泥灰土層からは絶滅した鱗木類の化石も出土しており、人間の指らしき化石と同年代のものであると判明した。
鱗木類の化石も指のような化石も白亜紀時代のものと鑑定されている。
しかし、「第一関節が見当たらず、人間の指ではない」「円筒状の穴に堆積した砂によって形成されたもの」という説もある。
また、CTスキャンで調査したところ、成人女性の指先ではないかという結果が出たという話も一部で記述されていた。


193
人間と恐竜の足跡/デルト・トラック(Paluxy River Dinosaur & Man Track)

「白亜紀の人間の指」でもおなじみのアメリカ・テキサス州グレンローズ。
この地域を流れるパラクシー川の白亜紀の石灰岩層で、人間の足跡の化石とされるものが見つかっている。
1910年頃に発見されたようで、川床に恐竜と人間の足跡が同時に存在し、人間の足跡は35cm~40cmあり、身長は2m以上と推測された。
1980年代から本格的な調査が始まり、考古学者のカール・E・ボウは川沿いに博物館を建て、
創造論における「人類と恐竜の共存」を証明するべく発掘プロジェクトを開始した。

削岩機などで石灰岩層をはがす1982年の実験では恐竜の足跡が40個以上、人間の足跡が10個以上も出てきた。
そのうち1つの人間の足跡はかかと部分が踏みつぶされるような形状で、恐竜の足跡と重なっていた。
これには地元メディアも騒ぎだし、恐竜時代に人間がいた証拠として大きく報道した。
また、発見された人の足跡と現代人の足跡の類似度を算出すると、90%近く相似していた結果が出たという。
その後、時期は不明だが、小型恐竜の足跡を人間の足跡に見えるよう細工している現場が押さえられたそうだ。


194
踏まれた三葉虫の化石(A Fossilized Human Footprint and Trilobite)

1968年、アメリカ・ユタ州でアマチュア化石収集家が奇妙な化石を発掘した。
それはカンブリア紀の5億7000万年以上前の地層から掘り出された三葉虫の化石だったが、
化石を調査していく段階で、三葉虫を踏みつけている靴のような足型が共に化石になっている事が判明した。。
くつ跡の長さは約25cmで、かかとの厚さは約1cmあった。そして、履き古したように外側部分が浅くなっていた。
足型の中には3匹の三葉虫が確認できるが、大きな石などで潰されたようには見えず、綺麗に踏まれているそうだ。
「単に重なり合ってそう見えるだけ」「靴跡に見える化石自体が巨大な三葉虫」などの推論・反論もある。


195
アレキサンダー大王時代の墓(The tomb of Alexander the Great's relatives)※未知の遺物ではない

「アレクサンドロス3世」は、紀元前336年~紀元前323年まで在位した、アルゲアス朝マケドニア王国の王。
英語読みでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とも呼ばれる。
旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する英雄だが、彼の墓は未だに見つかっていない。
遺体はバビロンから王都ペラへ移送途中にプトレマイオスに強奪され、ミイラとしてエジプトに埋葬されたといわれている。

そんなアレクサンダー大王時代の墓が2014年11月、ギリシャのアンフィポリス遺跡内にあるカスタ・ヒルの墳墓で見つかった。
墓から見つかった人骨は、妻のロクサーヌ、或いは母のオリンピアスともいわれている女性のもの。
この墳墓ではこれまでに美しいスフィンクスや複雑なモザイク画も見つかっており、墓の主は非常に位の高い人物だったという説が有力視されている。
ただ、墓がアレクサンダー大王自身のものである可能性は低いとみられている。


197
ノアの方舟(Noah's Ark)

旧約聖書の冒頭に書かれた「創世記」に登場する、主人公ノアと家族、多種の動物を乗せた方舟。
創世記の内容は、「神が7日間で世界を創り、男女が蛇の誘惑で楽園を追放」(1~3)、
「最初の殺人:カインとアベル」(4:1~16)、「ノアの方舟」(6:5~9:17)、「バベルの塔」(11:1~9)などが続いていく。
また、旧約聖書の洪水伝説は、古代メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」の洪水伝説の影響を受けているという説がある(描写が似ている為)。

ギルガメシュ叙事詩の内容を簡単に書くと、
「ウルクの王ギルガメシュと、神が彼の競争相手として創ったエンキド(エンキドゥ)は力比べをするが決着つかず、
やがて2人は親友となり、さまざまな冒険を繰り広げる。
しかし、冒険の果てに神の怒りを買ったエンキドは氏んでしまい、ギルガメシュも氏を恐れて永遠の命を求める旅に出る。
その後、ギルガメシュは神(風と嵐の神エンリル?)が起こした大洪水から『方舟』を作って逃げることで永遠の命を手に入れたウトナピシュティムに出会う」
といった物語になっている。

ノアの方舟物語の内容を簡単に書くと、
「神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと『神と共に歩んだ正しい人』であったノアに告げ、方舟の建設を命じる。
ノアは方舟を完成させると、妻と三人の息子とそれぞれの妻、すべての動物のつがいを方舟に乗せた。
大洪水は『40日40夜』続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。
その後、箱舟はアララト山の上にとまった」
といった物語になっている。


200
ノアの方舟 その2

旧約聖書内の記述から、方舟は古来より多くの学者や冒険家たちによって捜索されてきた。
現在までに、アララト山に漂着したとされる「方舟発見」(と主張される痕跡)の報告が何例か挙がっている。

・1世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスは「ユダヤ古代誌」の中で残骸を見たと記述している

・1883年の火山性地震により、ノアの方舟の残骸らしき古い木材建造物が一部露出。
トルコ政府関係者が調査するも、内部が崩落する危険性があり、途中で断念。

・1880年~1910年頃、帝政ロシアが大規模な捜索隊でノアの箱舟の残骸を捜索、かなりの成果を収めたらしいが、ロシア革命で資料が遺失。

・1960年代、駐トルコのアメリカ空軍によって、船影らしき長方形の黒ずんだ物体が、何度も確認された。
これらはアララト山北東斜面「北緯39°26′4″、東経44°15′3″、海抜1870m」付近のものが有力とされる。

・2010年、アララト山の山頂付近(標高約4000m地点)で、方舟の木片を発見したと、
トルコと中国の「キリスト教福音派」の考古学者ら15人からなる探検チームが発表。
炭素年代測定では、方舟伝説にある4800年前と同時期のものと判明したそうだ。


201
バベルの塔(Tower of Babel)

バベルの塔は、旧約聖書の冒頭に書かれた「創世記」(11章)に登場する、巨大な塔。
神話の建物とする説が一般的だが、一部の研究者は紀元前6世紀にバビロンのマルドゥク神殿に築かれた、
「エ・テメン・アン・キのジッグラト」がバベルの塔であるという説を提唱している。
もしくは、「ジッグラト」(古代メソポタミアの聖なる塔。複数ある)そのものがバベルの塔のモデルになった考えられている。
バベルはアッカド語で「神の門」を意味するが、聖書ではヘブライ語の「balal(バラル)=混乱/混迷」を指す。

「古代の全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。
人々は技術を手に入れ、その進歩とともに傲慢になり、やがて天まで届く塔を建てようとした。
神は人間の高慢な企てを知り、心配し、怒った。そして人間の言葉を混乱(バラル)させた。
主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。」

この物語には、当時のメソポタミアの都市・バビロンへの批判が込められているという解釈もある。
実際にある国の腐敗をモデルとし、物語で批判するという解釈は、
プラトンのアテナイ批判が込められたという説のある「アトランティス伝説」の解釈と似る部分がある。


202
バビロンの空中庭園(Hanging Gardens of Babylon)

バビロンの空中庭園は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つ。 
名前からは重力に逆らって空中に浮かぶ庭園のようなイメージが浮かぶが、実際は高台に造られた屋上庭園だった。
現在のイラク・バグダード郊外にそれらしき遺跡が残っている。

紀元前600年頃に新バビロニアの王ネブカドネザル2世が、
砂漠の国に輿入れするのを嫌がった王妃アミュティスを慰めるため、バビロンに庭園を建造したとされる。
宮殿の中に作った高さ25m・5段の階段状になっているテラスに土を盛り、水を上まで汲み上げて下に流し、樹木や花などを植えた。
あまりの大きさのため、遠くから見ると空中に吊り下げられているように見えたという。
水を汲み上げる方法については、らせん水揚げ機などの説があるが完全には分かっていない。
紀元前538年のペルシアによる侵略で破壊されたといわれている。


205
バビロンの城壁(Walls of Babylon)

バビロンの城壁は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つ。
しかし「バビロンの空中庭園」と混同されたためか、後世には七不思議入りしておらず、
代わりに「アレクサンドリアの大灯台」が入れられている。

新バビロニア王国の首都バビロンを取り巻く城壁で、高さ約90m、厚さ約24m、総延長は数十kmにおよび、100の門と250の塔をそなえていたとされている。
有名なものに、北域に位置する8番目の門「イシュタル門」がある。
城壁は二重になっていて、「生命の樹」という不老不氏になる力を持つ木を王が探しに行くために、門を開ける儀式がある。
また、その時に壁の間をシルシュ(聖獣)が走っているといわれる。


206
エフェソスのアルテミス神殿(Temple of Artemis at Ephesus)

エフェソスのアルテミス神殿は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つ。
紀元前7世紀~紀元3世紀にかけてエフェソス(現在のトルコ)に存在した、
狩猟・貞潔の女神(後に月の女神にもなった)アルテミスを奉った総大理石の神殿。現在は原形をとどめていない。

最初の神殿は紀元前700年頃の物で、キンメリア人によって破壊され、紀元前550年頃にリディアの王によって再建された。
紀元前356年に放火で再び失われ、紀元前323年に三度建てられた。
異なる記述も多々あるが、プリニウスによれば、神殿は広さ縦115m、横55mで、高さ18mの柱127本からなっていた。
1863年から大英博物館の考古学探検隊がエフェソスの発掘を続け、7年後ついに深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見した。


207
ハリカルナッソスのマウソロス霊廟(Mausoleum at Halicarnassus)

ハリカルナッソスのマウソロス霊廟は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つ。
ハリカルナッソス(現:トルコの港湾都市ボドルム)にあった、
カリアの王マウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟。
マウソロスの氏から3年後の紀元前350年に完成したといわれている。

妻アルテミシアは霊廟建設の費用を全く惜しまなかった。
彼女は当時最も優れた建築家と芸術家を連れてくるためギリシアに使いを送り、2人の一流建築家と4人の高名な彫刻家が造営に参加した。
王の氏から2年後、アルテミシアも後を追うようになくなった。
伝説によれば、彼女は夫マウソロスの遺灰をワインに混ぜて飲み、悲しみのうちに息絶えたといわれている。
この伝説から、アルテミシアは献身的な妻の象徴にもなっている。
霊廟は1856年に、書物でおおよその位置を把握していた大英博物館の考古学者チャールズ・ニュートンによって発掘された。


208
オリンピアのゼウス像(Statue of Zeus at Olympia)

オリンピアのゼウス像は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つ。
紀元前435年に、古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された天空神ゼウスの彫像。
主に古代オリンピックにおける奉納競技の本尊とされていたといわれる。

紀元前5世紀頃、オリンピアに「ゼウス神殿」が建造され、ゼウス像はこの神殿の奥に収められた。
座像でありながら全長は約12mもあり、
紀元前1世紀頃の地理学者ストラボンは「もしゼウス像が立ち上がったら、屋根を突き抜けてしまうだろう」と記述している。
西暦394年、ゼウス像はオリンピアからビザンツ帝国に移された。その後の消息は不明だが、おそらく焼失したものと考えられている。
1958年にゼウス像の建造に使用されたと考えられる工房が発見され、この発見によってゼウス像の全容の解明が進められた。


209
トロイアの木馬(Trojan Horse)

ギリシア神話に登場する装置。「トロイの木馬」とも言われる。
木馬の中に人が隠れることができるようになっており、トロイア戦争においてトロイア(イーリオス)を陥落させる決め手となった。
古代都市イーリオスは長く神話上のものと思われていたが、19世紀末、ハインリッヒ・シュリーマンによりトロイア一帯の遺跡が発掘された
現在では第7層がトロイア戦争のあったと伝えられる時期(紀元前1200年中期)であると考えられている。

トロイア戦争にまつわる叙事詩の全てが架空のものではないとすれば、その中心はやはりイーリオスの破壊と考えられる。
都市が火災に見舞われたことは考古学的に間違いないが、それが侵略によるものかどうかは、可能性としてはかなり高いものの推察の域を出ない。
また、神話において戦争の勝敗を決定づけた「木馬」はまだ見つかっていない。
トロイアの木馬が神話をドラマチックに見せるための空想だったのか、それとも実在した装置だったのかは、未だ不明である。


210
ロードス島の巨像(Colossus of Rhodes)

ロードス島の巨像は、古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つ。
紀元前3世紀頃にリンドスのカレスによってエーゲ海のロードス島に建造された、太陽神ヘーリオスをかたどった彫像(コロッソス)。
全長は34m、台座まで含めると約50mになり、ニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさだった。

巨像が完成したのは着工から12年後の紀元前284年とされている。
58年後の紀元前226年にロードスで地震が発生、巨像は膝から折れて倒壊した。
巨像は800年間にわたってそのまま放置され、残骸を見物するために多くの人が訪れた。
西暦654年、ムアーウィヤの軍がロドスを征服し、イスラム教徒で偶像崇拝を禁じている彼らは巨像をスクラップにした。
結果、現在では巨像はカケラも残っていない。
巨像のイメージは港口をまたぐ姿勢とされているが、これは1つの伝説が元になっており、本来の姿は分かっていない。


211
アレクサンドリアの大灯台(Lighthouse of Alexandria)

古代ギリシアの数学者・フィロンが選んだ「世界の七不思議」の建造物の1つに加えられているが、
彼は自分の国の不思議を考慮しなかったため、実際には七不思議に含まれていない。
紀元前3世紀頃にエジプト・アレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台。「ファロス島の大灯台」とも呼ばれる。

灯台の高さは約134mで、当時は地球上で最も高い人工物の一つだった。
建材には大理石が用いられ、頂点には鏡が置かれた。日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていた。
796年の地震で大灯台は半壊し、その後の1303年と1323年の地震で完全に崩壊。
1480年頃、残骸を利用して要塞が建造され、大灯台は完全に消滅した。
1994年にダイバーによって遺構が発見され、衛星調査でさらに解明が進むことになる。
また、戦時には鏡の反射光を敵の船めがけて照射し、船が海岸に到達する前に燃やすことが出来たという伝説がある。


212
レイライン(Ley Line)

「古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがある」という仮説で、その遺跡群が並ぶ直線。
レイラインの存在は、1921年にイギリス人のアマチュア考古学者アルフレッド・ワトキンスによって提唱され、
著書「The Old Straight Track」によって遺跡の直線的配置性が話題となった。
地図を開けば確かに遺跡が直線上に並んでいるように見える部分が多くあるが、レイラインを認める動きは学術的には主流とは言えない。
主な理由は、「古代の人々がどうしてそんな直線性を持たせたのか」が不明な事、
また、「直線性は偶然に発生したのでは」という疑いに対する解答が得られていない事とされる。

考古測地学を用いて解析すると、レイラインと呼ばれるものは古代人が測量し、所有権を主張するために引いたか、
単に一般的な街道を作ったものとも推察できる。
近代的な測量により、「地形」においてもこうした直線性があることも確認されている。
ニューエイジ(新世界主義)の間では、レイラインやレイライン同士の交点は、
「風水」「ダウジング」「UFO」のようなものを含む神秘的、超自然的なエネルギーに共鳴する地点だと考える説がある。


213
レイライン その2

ニューエイジ派の地相学者たちによると、
レイラインを描くことで大地を調(ととの)えられたり、有史以前の交易路を明らかにすることが出来ると言われている。
懐疑論では、 ランダムに点を結んでもレイラインらしく見える直線が引ける(画像参照)という意見を出し、
地図上に直線が見えることは矛盾しないし、矛盾しないが故にこの直線を説明する必要はないという考えがある。
また、自然発生説やオカルトへの対応として、「仮説検定」「反証可能性」「オッカムの剃刀」(仮定を最小に留める事)などを用いて、
事実をきちんと説明できる土台を作るよう提案している。

レイラインについては幅広い信仰や理論があるが、それらの多くは反証可能でなく、基本的に科学的な検証方法に則っていない。
しかし、レイラインと呼ばれているものは遺跡が「偶然」そう見えるように並んだ結果に過ぎないという説も、
レイライン説を否定する的確な説というわけではない。


214
<ロストテクノロジー>

ローマン・コンクリート(Roman concrete)

「古代コンクリート」とも呼ばれる、ローマ帝国の時代に使用された建築材料。
セメント、および「ポッツォーリの塵」と呼ばれる火山灰を主成分としている。
現代のコンクリートはカルシウム系バインダーを用いた「ポルトランドセメント」だが、
古代コンクリートはアルミニウム系バインダーを用いた「ジオポリマー」であり、およそ倍以上の強度があったとされる。
例えば、日本のコンクリート建造物の寿命は約50年~100年程度と言われているが、ローマの「コロッセオ」は2,000年近く経過した現在でも形状を保っている。
また、ジオポリマーで作られたコップはコンクリートの床に落としても陶器のように割れることなく跳ね返るなど、極めて強靭な性質を備える。
ローマン・コンクリートは、ローマ帝国の滅亡後に使用された痕跡はない。

近年、古代コンクリートは徐々に見直されつつある。
強度が高く、強度発生までの時間が短いため、軍事面での応用や研究も行われている。
また、鉄道の枕木、下水管、滑走路や石造りの建築物の補修など、広範囲の用途で試験が始まっている。
さらに、現代のポルトランドセメント製造は環境に悪影響で、CO2排出量は産業全体の実に7%に相当するが、
古代コンクリートは環境にやさしい点も注目されている。


215
ローマ水道(Roman aqueduct)

紀元前312年~西暦200年代にかけて、古代ローマで建築された多数の水道。
これらの水道は古代の土木建設で最も偉大な業績の1つであり、古代ローマの滅亡後1000年以上、これに匹敵するものは作られなかった。
現代でもこの水道は多くの都市で実用に供され、2000年以上も水を供給し続けている。

都市ローマ内の水道は合計350kmになり、ほとんどは地下を流れていて、例えば動物の氏骸が原因の腐敗を避けることができ、敵の攻撃からも守られた。
水道は非常に精巧に作られており、厳密な許容誤差内で建築されていた(1kmあたり約34cmの誤差)。また、重力を利用した効率も良さも挙げられる。
ローマ市で供給された1日の1人当たりの水量は約1000Lで、現代の東京都民の水使用量233Lを遥かに凌ぐ。
また、「サイフォン」と呼ばれるパイプの圧力を利用して水を上昇させており、現在の水力技術も上下水道で同様の技術を使用している。
施設を構成する建造物には、連続アーチ構造の水道橋、不純物を沈殿除去する沈殿池、末端の分水施設などがあった。
これらの施設には石やレンガの他、強度の高いローマン・コンクリートも使用されている。
偶然の故障やメンテナンスに対応するため、地下の導水渠には一定の間隔でマンホールが設けられていた。
ローマ帝国の滅亡で、ローマ水道は敵により徐々に破壊されていき、その他の水路もメンテナンス不足により故障し、水道技術は大幅に衰退・停滞した。


216
ペルーの農業用水路(Irrigation in Peru)

南米・ペルー北部、標高2,750mの山に囲まれた盆地に、カマハルカ(Cajamarca)という都市がある。
カハマルカから約20kmの地点に巨大な岩が乱立する「クンベ・マヨ」(Cumbe Mayo)という場所があり、
ここには岩に掘り込まれた精緻な水路がある。

この水路が作られたのは紀元前900年頃とされ、当時はプレ・インカ文明が繁栄していた。
水路の長さは合計20km以上で、コース上にある巨石には30cm程度の鋭利な切断面があり、それが岩盤の中を100m以上伸びていて、途中で直角に曲がっている。
この切り口は刃物を使っても作れないといわれ、レーザー光線のようなものが使用されたかもしれないという説がある。
また、水路の中には幅が20~30cm且つ深さが約2mある個所もあり、機械を使ったのではないかともいわれる。
機械やレーザーを用いる技術があればこのような原始的な水路を作らないとも思えるが、詳しい加工方法は不明。


217
>>216
コレなんか好きなんや
ローマの水道もええな


223
ギリシアの火/ギリシア火薬(Greek fire)

東ローマ帝国で使用された焼夷兵器。「液火」などの別称がある。
海戦で使用され、水上に浮いている間ずっと燃え続けるという性質を持ち、
帝国の多くの軍事的勝利において鍵となる役割を果たしたとされる。
特に、首都コンスタンティノープルをアラブ軍の2度に渡る攻囲から救出したことで、帝国は生き残ることが出来た。
ギリシア火薬は国家機密とされていたため、帝国の滅亡とともに製造方法が失われた。

配合の問題は推測や議論のまま残されており、松脂、ナフサ、酸化カルシウム、硫黄または硝石の混合物とする意見が見られる。
ギリシア火薬は672年頃に開発されたもので、火矢と可燃性の物質を充填したポットは紀元前9世紀初頭から既に使われていた。
火薬の機構を再構築しようとする時に与えられる条件は、
「水上で燃焼する、または水によって着火する」「液状の物質で、発射体ではない」
「海上において、常にサイフォンから放射される」「放出の際、『雷』および『多量の煙』が伴う」ことなどが挙げられている。


224
アイオロスの球(aeolipile)/ヘロンの蒸気機関(Hero engine)
※ロストテクノロジーではありません

「アイオロスの球」は、紀元1世紀頃に発明された、熱することでロケットのように噴射して回転するジェットエンジン。
古代ギリシャの数学者・工学者であったアレクサンドリアのヘロンが開発した初めての蒸気機関/蒸気タービンで、
「ヘロンの蒸気機関」とも呼ばれる。
実際の発明者は完全には分かっていないが、多くの文献は彼が発明者だとしている。
なお、アイオロスはギリシア神話の風の神を指す。

球体・円柱の形をした単純な回転体の容器で、1つの軸を中心として回転する。
複数のノズルが軸に対して放射状に配置されており、それぞれの先端は回転方向の逆に曲がっている。
容器内を蒸気で加圧すると蒸気がノズルから排出され、ロケットの原理で推力を生じる(画像参照)。
容器を固定する台の部分は単純なボイラーになっていて、水を熱して蒸気を容器に供給する。
アイオロスの球が古代に「エンジン」として実用に供されたかどうかは不明とされている。
ヘロンの図に描かれているのは単独の装置であり、見世物を意図したものだろうという説もある。
アメリカ海軍ではこの発明の蒸気技術への貢献を認識し、ボイラー技術者の階級章にアイオロスの球の形を採用している。


225
ガルム(Garum)

古代ローマで主な調味料として使われていた発酵調味料で、「魚醤」の一種。
ローマ世界で最もよく使われたが、発祥は古代ギリシアとされる。
等級によってガルムはローマ庶民の日常の食品になり、富裕層向けの高級品にもなった。
最高級のガルムはキャビアほどではないにしろ、高級な香水と同程度の価格で取引されていたという。

サバ、アンチョビ、マグロやカツオ、スプラット(キビナゴ)、イワシなど脂ののった様々な魚の内臓を細切れにし、塩水に漬けて発酵させて作る。
完成品はまろやかで繊細な風味だが、発酵中はひどい臭いがするため、生産者は近所から苦情が来ないよう都市の郊外で生産した。
家庭ではワイン、酢、コショウ、油などと混ぜて、色々な料理の供にされた。
ガルムはローマ帝国の滅亡と共に製法が途絶えており、現在では魚醤自体ヨーロッパで珍しいものとなっている。


226
ダマスカス鋼(Damascus steel)/ウーツ鋼(Wootz steel)

ダマスカス鋼は、木目状の模様を特徴とする鋼であり、古代インドで開発・製造された「ウーツ鋼」の別称。
インド産のウーツ鋼を使用し、シリアのダマスカスで刀剣などに鍛造されたことから、 この名がついた。
現在は、異種の金属を積層鍛造して同じような模様を浮かび上がらせた鋼材も「利器材ダマスカス鋼」と呼ばれているが、
本来のダマスカス鋼は19世紀に生産が途絶えたため、現在は製造技術が失われている(製鉄・鍛造方法はほぼ再現が完了している)。

インド産のウーツ鋼は、鉄鉱石からルッペという鉄片を作り、生木の葉と共にるつぼに入れてインゴットを得た後、
それを鍛造加工することにより表面に複雑な縞模様が顕れるという方法が用いられた。
当時、ヨーロッパでは錬鉄といわれる不純物を含んだ鉄を鍛造・精製方法が採られていたので、
ウーツ鋼は東洋の神秘、刀剣用の高品質の鋼材として珍重された。

ダマスカス鋼でできた剣は名誉ある騎士に贈られ、また、彼らの憧れの的だった。
剣の切れ味は「絹のネッカチーフが刃の上に落ちると自重で真っ二つになる」「鉄の鎧を切っても刃こぼれしない」等と評価されている。
(木目模様と違い、切れ味はそれぞれの剣で変わると思われる。また、再現において切れ味は恐らく考慮されていない)


227
綾杉肌/八雲肌

日本刀にも、木目のように複雑な模様を持つものがある。
鉄を折返し鍛錬を続ける(鍛え肌)と様々な模様が現れ、肌の特徴は流派によって変わる。

「綾杉肌」は波のうねりに似た曲線模様の地肌で、出羽国の月山一門の特徴である事から「月山肌」とも呼ばれる。
この地肌は素延べの際に先が丸い鏨(たがね)を用い、刃の方向に向かって地を斜めに鋤き取り、打ち延ばす事によって生じるとされる。

「八雲肌」は混ぜ鉄により鍛えられた特殊な地肌の1種。
肌の模様は幾重にも重なった雲を連想させ、それを文学的に名付けたものとされる。
水戸の藩主・徳川斉昭が「烈公」と号して鍛刀した際の地肌となっている 。


228
ウルフバート(Ulfberht)

北欧・スカンディナヴィアで用いられたヴァイキングの刀剣の一種。
西暦800~1050年頃、ヨーロッパではヴァイキング全盛の時代だった。
彼らが使用していた剣 「ウルフバート」は、これがあれば戦闘で負けなしと言われるほどで、
通常の剣より遥かに優れた耐久性を持ち、敵の鎧を容易に貫通した。

全てのウルフバートには、剣の平に「+VLFBERH+T」と刻印されている。
現在171本のウルフバートが見つかっているが、「本物」と確認されたものは数本しかない。
この剣は誰が作ったのかも、+VLFBERH+Tの意味(ラテン文字で書かれている)も判明していないが、
最新の調査では、製作者はドイツの修道士である可能性が挙げられている。

また、ウルフバートは様々な成分調査から「インド産のるつぼ鋼」が用いられたとされており、
この鋼は二次加工によってダマスカス鋼にもなる鋼で、非常に純度が高い。
つばの部分には高い濃度の砒素が含まれた鉄が使われ、これはヨーロッパが原産である事を示す。
剣の製造工程についても謎が多く、ウルフバートにはほとんど不純物がなく、
鉄をここまで熱するための炉は産業革命で初めて発明されたと考えられている。


229
西洋剣術(Swordsmanship)

西洋で発達した剣技。
騎士の時代、日本と同じように剣術は武術の中の1つであり、短剣術、長柄の武器術、組打ち術と同格に扱われた。
接近すると長柄の武器を捨てて短剣に切り替えることは、戦場においては必要だった。
また、弓やクロスボウが騎士の技術としては存在せず、それらは兵士身分の技術であり、騎士は白兵戦を好んだ。
血が付いて切れなくなったり、刃が欠けて使い物にならないと実用性に欠けるため、西洋剣では切れ味よりも丈夫さが重視されていた。また、西洋の剣は両刃が多い。
したがって切れ味を重視する日本刀とは異なる戦闘技術が発達している。

西洋剣術は日本の古流剣術のように連綿と語り継がれているものではなく、
「銃」の発達によって、フェンシングなどスポーツとなっていたもの以外の実践的な剣術は学ぶ者がいなくなり、失伝している。
現在はアカデミックな研究が行われており、
古い文献などから復元を試みている研究者や観光資源として再現している人物がいるが、解釈の違いや修正部分が多々ある。


230
古刀

古刀(ことう)は、慶長以前に造られた日本刀。
刀身性能と刀身美の頂点に君臨する日本刀として評価されている。
「古刀期」は平安時代以前~室町時代、「新刀期」」は慶長~寛永、「新々刀期」は天明~明治の廃刀令までを指す。
それ以降は「現代刀期」になる。
古くに造られた古刀期の日本刀の方が、刀鍛冶の技術交流や鉄の精錬技術が進んだ新刀期以降の日本刀よりも優れた作品が多い。
これは、古刀期から新刀期になる時期を境として、日本刀の製作方法や用いられる鉄材に大きな変化があったためとされる。

古刀は舶載鉄、国産塊錬鉄、銑(ずく)、南蛮鉄、その中間物質が混ざった素塊などを卸した地鉄を使っていたと推定されているが、
江戸中期からは「玉鋼」が日本刀の素材として使われるようになった。
江戸期の鎖国で輸入鉄が無くなったのが主な理由で、国産の鉄を作らざるを得なくなり、その結果劣化版ともいわれる玉鋼が生まれたそうだ。
また、江戸・泰平の世は実戦が無くなった為に刀の本質が薄らぎ、専ら刀身美に関心が集まったため、
刀身美を競う刀が多く造られた事も影響している。
古刀の鋼材・作刀法は未だ謎に包まれた部分が多く、刀匠の制作の方法等は口伝で語られる事が多かったため、再現は難しいとされる。


232
虎徹

江戸時代の名工・虎徹が作った刀。
彼は古い刀の鉄を溶かして刀を造っており、元は「古鉄」と名乗っていた。
虎徹の作刀は地鉄が緻密で明るく冴え、鑑賞面にも優れ、切れ味が鋭い名刀として名高い。
また、井伊直弼の差料だった脇差などを見ても分かるように、大名など上流階級が所蔵する品で人気が高く、
そのため「虎徹を見たら偽と思え」という格言が生まれた。
世の中に虎徹と銘のある刀は3,000振り存在し、その中で虎徹名鑑に所載されている刀は150振りしかない。

流星刀
流星刀は、鉄隕石(鉄、ニッケル合金からなる隕石)を鍛えて作られた刀。
特に、明治時代、榎本武揚が富山県に落下した隕鉄を、刀工の岡吉国宗に依頼して作った流星刀が有名。
鉄と比べて柔らかすぎる隕鉄の加工に苦労したとされ、試行を重ねた結果、隕鉄60%に鋼40%の分量で混合し、鍛えあげることに成功。
流星刀は大小4振り製作され、その内2振りは当時の皇太子(後の大正天皇)に献上された。



236
和釘
※ロストテクノロジーではありません

和釘は、日本独自に発達した釘の一種。
洋釘が日本に伝わるまでは、日本の釘は全て和釘だったが、やがて洋釘が一般となり和釘は消滅した。
和釘に使われている鉄は純度が高く、非常に錆びにくいことで知られる。
世界最古の木造建築である法隆寺の解体修理で出た釘は、3本の内1本がフランスの「鉄の歴史博物館」に贈られ、
残り2本は日本で収蔵されている。

古代の日本建築に釘が使われてないというのは間違いで、固定していないだけで実際には釘が使われていた。
現在の鉄は大量生産で、純度よりも量が優先されるため、和釘を作る機会はほぼない。
鉄を特に精錬する必要があるとされ、実際に少量作られたことがあるそうだ。


237
零式艦上戦闘機

零式(れいしき)艦上戦闘機は、第二次世界大戦期における日本海軍の主力艦上戦闘機。
愛称は「零戦」(ぜろせん)。連合軍側のコードネームは「ZEKE」(ジーク)。
2,200kmに達する航続距離、20mm機関砲2門の重武装、優れた格闘性能を生かして敵国の戦闘機に対し優勢に戦い、
米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。
終戦まで運用され、その都度用途も拡大し、爆撃機や特攻機としても使われた。
開発元は三菱重工業で、半数以上は中島飛行機でもライセンス生産された。

零戦は最大速力、上昇力、航続力を満たすため、極端に軽量化がなされている。
最高速度は500km/hを超え、初期型の急降下制限速度は629.7km/hだった。
軽量化のこだわりは随所に見られ、防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置などが搭載されていない事は勿論、
ボルトやネジなど細部に至るまで徹底した軽量化が追求されている。
そのため、当時の職人への技術頼りの面(特に翼の工程とされる)が強く、現代で同じものは作れないといわれている。


245
大和の主砲(Main gun of Battleship YAMATO)
※ロストテクノロジー扱いされているが、現役の旋盤機はある

第二次世界大戦後、主に航空母艦の台頭や航空機、ミサイルの発達という理由により、戦艦は「無用の存在」となった。
更に、当時使われた12インチ(30.5cm)~20インチ(50.8cm)クラスの大口径砲の製造技術も失われてしまったといわれている。
旧日本海軍の戦艦「大和」は広島県呉市の海軍工廠で完成されたが、
大和に搭載された46cm45口径の主砲を製造したドイツ製の大型旋盤が今も、兵庫県播磨町の機械加工メーカーの工場に予備機として置かれている。

大和の製造に使われた現存する主要機械は、強度試験機を除くとこの旋盤のみとされる。
旋盤も当時は十数台が稼働していたが、占領軍によってこの1台を除く全てが破壊されている。
一部分解されているが、組み立てると長さ約20m、重さ約150t。
工場長の藤田義信氏(66)は「いつでも動かせる状態にしてある」と語っている。
(旋盤があるだけで大砲が作れるかどうかは分かりません 詳しい方助けて)

また、外国の戦艦主砲などに関しても、作ろうと思えば作れるがメリットがないという話もあるが、
根本の製造機械・ノウハウが消失したものが多い。


246
醍醐/醍醐味

醍醐(だいご)は、仏教において牛や羊の乳を精製する過程で発生する五段階の味「五味」の1つ。
仏教の五味は、「乳味」「酪味」「生酥味」「熟酥味」「醍醐味」から成る。
醍醐は精製の段階を経て美味となった最高級の風味や乳製品を指し、濃厚な味わいとほのかな甘味を持った液汁とされている。
既にその製法は失われており、バターのようなもの、又はカルピスや飲むヨーグルトのようなもの、
または蘇(レアチーズ)を熟成させたものではないかといった推論にとどまっている。

平安時代以降、日本で乳飲料を飲用する習慣がなくなり、製法が絶えたとされる。
また、三代格式の1つである延喜式では、納税に用いる「蘇」(レアチーズ)の製造が規定されており、
蘇は醍醐を製造する前段階の乳製品であることから、
蘇をベースにさまざまな手法で醍醐を作り出す試みが食品研究家らによって行われている。

ちなみに、カルピスは当初「カルピル」という名前が考案されており、名前に醍醐が取り入れられていたが、
語感がよくないという理由で変更された。


247
北宋・汝窯の青磁

「青磁」(せいじ)は、紀元前14世紀頃の殷(中国)を起源とする青磁釉を施した磁器、または炻器。
特徴的な青緑色は、素材に含まれる酸化第二鉄が、高温の還元焼成で酸化第一鉄に変化する事で発色する。
メノウを混ぜ込むことで、淡いピンク色になる事もある。

「汝窯」(じょよう)は、北宋時代に青磁を焼いた河南省清涼寺の窯。
汝窯の青磁は最高級品として知られ、澄み切った青空のような色彩(「天青色」とも表現される)をしている。
高麗の滅亡後、職人の多くが海外に流出、あるいは白磁の製造に切り替えるなどしたため技術が失われた。
現存数は少なく、どれも非常に高価だが、復元への試みがなされている。


248
曜変天目茶碗

天目茶碗は、「天目釉」と呼ばれる鉄釉(薬品)をかけて焼かれた陶器製の茶碗。
曜変天目茶碗は天目茶碗のうち最上級とされるもので、世界で3点(或いは4点)しか現存していない。
その全てが日本にあり、3点が国宝、1点が重要文化財に指定されている。
いずれも中国・南宋時代の作とされるが、作者は不詳。
ある時期、建窯でわずかな曜変天目茶碗が焼かれ、それから二度と焼かれることは無く、
なぜ日本にだけ現存したのかなど、多くの謎が残っている。

漆黒の器であり、内側には星の様にもみえる青・群青・銀・黄色などの玄妙な光沢・色彩を呈する大小の斑文が散らばり、
斑文の周囲は藍や青で、角度によって虹色に光彩が輝き、「器の中に宇宙が見える」とも評される。
現在、技術復元への努力が一部の陶芸家によって続けられている。
(2002年に陶芸家の林恭助が再現に成功したという記述があるものの、曜変の条件に沿うものは現在でも国宝の3点のみとされている)


249
ロレット・チャペルの螺旋階段/聖ヨゼフの階段(Loretto Chapel spiral staircase)

アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェに、ロレット・チャペルという名の修道院がある。
ここには、「聖ヨゼフの階段」「サンタフェの奇跡」等と呼ばれる不思議な螺旋階段が作られている。
木造で2周ほどあるこの階段は、最大の特徴として「支えとなる柱や壁がない」事が挙げられる。
一般的な螺旋階段には、階段の内側か外側に支えるための支柱や壁が存在しており、
この支えがなければ階段は自重に耐え切れず、原型を保てないといわれる。

ロレットチャペルでは、螺旋階段について以下のような物語が語られている。
「1873年から修道院の建設が始まった。
建設は順調に進んでいたが、シスター達は完成間近となったチャペルで、2階の礼拝堂へ登る手段が忘れられている事に気づいた。
しかし時既に遅く、階段を設置しようとしてもスペースが無い。
そこで、シスター達は聖母マリアの夫である聖ヨゼフに9日間祈りを捧げた。
そんな祈りが通じたのか、9日目に白髪の老人が現れ、階段の作成を申し出た。
彼は、1本のノコギリ、定規、金槌だけを使い、半年掛けてこの螺旋階段を作成し、そのまま姿を消してしまった」


251
>>249
この話好き


250
ロレット・チャペルの螺旋階段/聖ヨゼフの階段 その2

最大の謎は、階段の製作方法にある。
支柱のない螺旋階段は、日本でも鳥取県の「仁風閣」に存在するが、その螺旋階段は壁を支えとした構造になっている。
また、支柱も壁もない、これと同じような階段はフランスのルーヴル美術館展内に存在する。
しかし、(物語が本当なら)老人1人が半年間に少ない道具で、しかも140年前の技術水準で製作出来るかは分からない。

聖ヨゼフの階段は単に柱や壁がないだけではなく、十数人の人間が同時に乗ってもビクともしない強度を持っている。
仮説として、「内側の螺旋の半径が小さいことから、この階段自身が支柱そのものである」、
「普通の階段より『弾力』があることから、コイルやバネと同じ原理で作られている」などが挙げられている。
日本の職人なら作れる、或いは作れると発言したという記述も時々見るが、その根拠となるものは不明。


252
ストラディヴァリウスの製作技術(The recipe of Stradivarius)

ストラディヴァリウスは、
イタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者アントニオ・ストラディヴァリが製作した弦楽器の総称。
ヴァイオリニストや収集家の羨望の的であり、しばしばオークションにおいて高額で落札される(最高落札額12億7000万円)。

そんなストラディヴァリウスの音色の秘密は、長い間科学的調査の対象とされてきた。
様々な調査結果があるが、それぞれ賛否両論であり、
ストラディヴァリウスの音色を再現したという現代の弦楽器製作者は自称・他称含め複数存在するが、評価は定まっていない。
音色の秘密は、単に「製作の精度が高いこと」「丁寧に扱われたこと」「修理が高度な技術で施されたこと」
「経年変化による木材の音響特性の変化の要素があったこと」などに過ぎないという見方もあり、1つの有力説とされている。
ストラディヴァリには純然たる後継者がおらず、製法を秘匿したうえ、イタリアの楽器製造産業が途絶し、その製作技術は失われた。
多くの楽器職人や研究者がその音の秘密に挑んでいるが、未だに完全な解明はなされていない。


253
オルフィレウスの永久運動機械/オルフィレウスの自動輪(Orffyreus Wheel diagram)

「永久機関」は、外部からエネルギーを受け取ることなく、仕事を行い続ける装置を指す。
これが実現すれば石炭も石油も不要となり、エネルギー問題なども発生しない。
18世紀の科学者、技術者は永久機関を実現すべく精力的に研究を行った。
しかし、18世紀の終わりには純粋力学的な方法では実現不可能だということが明らかになり、
さらに19世紀には熱を使った方法でも不可能だということが明らかになった。
それは、現在の物理学の基本を成す熱力学の第一法則「エネルギー保存の法則」をまるで無視した存在とならなければならないからだった。
永久機関は実現できなかったが、これによって物理学の分野の1つ「熱力学」が大いに発展した。

しかし、歴史上1人だけ、永久に動き続ける機械を発明したと言われる人物がいる。
彼の名は「オルフィレウス」といい、1680年にドイツ・ザクセンで生まれ、
32歳の時に永久運動の謎を解き明かしたと世間に公表した。


254
オルフィレウスの永久運動機械/オルフィレウスの自動輪 その2

記述によれば、直径90cm・厚さ10cm、の「自動輪」を公開したのが最初とされる。
車輪は軽く押されると、やがてその回転速度を増し、
車輪にくくり付けられたロープによって重さ3kg程度のものを持ち上げることに成功した。
しかし町の人々の反応は冷ややかなもので、オルフィレウスはその後各地を転々とし、
噂を聞きつけたヘッセン・カッセルのカール大公が研究のスポンサーとなった。

安住の地を得たオルフェリウスはそこで更なる研究を重ね、直径3.6m・厚さ35cmの巨大な車輪を製作した。
彼は自分の発明が盗まれないよう、仕組みの核となる部分には目隠しをして公表したが、それゆえ彼の発明に疑問を持つ人々は多かった。
1717年、オルフィレウスは懐疑的な疑いを晴らすため、大掛かりな公開実験を行う。
車輪は大きな部屋に移され、機械に誰も触れないよう役人がその部屋のドアを固く密閉。
2週間後にドアを開けてみたところ、まだその車輪は動き続けていた。
その後ドアを密閉し、さらに2ヶ月経った後に再び扉を開けたところ、それでも車輪は回り続けていた。

その後オルフィレウスは機械の取引の際に契約の不備に怒り、それを破壊し、歴史から姿を消した。
資料の多くも彼と共に消失しており、この永久運動機械の全容は解明されていない。


255
<文書・文字・暗号>
※除外⇒「Cicada3301」「ワン将軍の金塊」「Chaocipher」「D'Agapeyeff cipher」

旧約聖書(Old Testament)

旧約聖書は「ユダヤ教」および「キリスト教」の正典であり、
「イスラム教」においても一部(モーセ五書/詩篇)が啓典とされている。
「旧約聖書」という呼び方はキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」と扱われている。
これら3宗教の文化圏では、近代の考古学によって古代文明の詳細が明らかになるまで聖書が世界最古の文献と信じられてきた。

旧約聖書はいくつかの文献によって構成されている。
(三大預言書/聖詠/ルツ記/士師記/サムエル記/エステル記など)
多くの宗派において最初に来るものは「モーセ五書」とされる。ユダヤ教では「律法(トーラー)」と呼ばれる。
モーセ五書は「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」から成り(近年では「ヨシュア記」を加えて六書とされる事もある)、
成立した年代は紀元前500年頃とされ、初期の形は紀元前1000年以上前にはあったとされる。
聖書の記述には誤りが無いと信じる「福音派」は、旧約聖書は聖書記者によって書かれた時から正典としての権威を持っていたとしている。
旧約聖書は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や学派のようなグループが関わり、
何度も大きな増補・改訂・編纂が行われ、その過程はかなり複雑なものだともいわれており、全容が完全に判明しているとは言い難い。

新約聖書の編纂は、紀元1~2世紀といわれる


256
ギルガメシュ叙事詩(Epic of Gilgamesh)

古代メソポタミアの文学作品。叙事詩(じょじし)。
実在した可能性のある古代メソポタミアの王ギルガメシュを巡る物語。
主人公のギルガメシュは、紀元前2600年頃にシュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王で、
後に伝説と化して物語の主人公になったとも考えられている。

最古の写本は紀元前2000年初頭に作成された「シュメール語版ギルガメシュ諸伝承の写本」。
また、シュメール語版の編纂は、紀元前3000年頃まで遡る可能性が極めて高いといわれる。
これだけ古いので、様々な文献に影響を与えたとされており、
例えば旧約聖書の「ノアの方舟物語」は「ウトナピシュティムの洪水神話」が元になったという説、
ギリシャ神話の物語の中に、これが原型と考えられているものがある、といった話がある。
古代以後長い間忘れられていたが、
最初の粘土板写本が発見された1853年(聖書との類似性の発見は1872年)以後の文学作品にも大きな影響を与えた。


257
死海文書(Dead Sea Scrolls)

「死海」は、イスラエルとヨルダンに挟まれたアラビア半島北西部の塩湖。
ヘブライ語で「塩の海」、アラビア語で「死の海」と呼ばれ、
30%の塩分濃度(通常の海は3%)があるため魚類の生息は湧水の出る1箇所以外で確認されておらず、それが名前の由来になっている。

「死海文書」は、1947年以降、死海の北西にあるヒルベト・クムラン遺跡周辺で発見された972(+α)の写本群の総称。
「死海写本」とも呼ばれる。
内容は主に、「旧約聖書」(ユダヤ教では単に「聖書」)とそれに関連する文書で構成されていた。
多くは羊皮紙で、一部パピルスもあり、分析では紀元前250年頃~西暦70年の間のものと考えられている。

死海文書は最古の写本を含む、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持つ文書で、当時のユダヤ教の実情をうかがわせるものとされる。
内容は大きく分けて三つに分類され、
[1]「旧約聖書(ヘブライ語聖書)の正典本文」
[2]「旧約聖書外典」+「偽典」と呼ばれる文書群(エノク書、ヨベル書などでユダヤ教の聖書正典としては受け入れられなかったもの)
[3]「宗団文書」(著者とされるクムラン教団の規則や儀式書)
となっている。


258
死海文書 その2

死海文書の価値は当初から認めていたわけではなく、静観の姿勢をとる者が多かった。
文書の研究が進むにつれ、1世紀頃に成立したという事が認められていった。
この発見によって、聖書の内容が時代を経てどれほど変遷しているかを確認することがより深く確認出来るようになった。
それまで最古の写本は、西暦925年頃の「アレッポ写本」(モーセ五書を含めれば西暦1008年のレニングラード写本)だったので、
単純計算で最古の写本が一気に約1000年も遡った。
現代の研究者たちは、西暦100年頃に行われたユダヤ教の聖書正典化作業以前、
聖書の内容は非常に多様かつ流動的なものだったと認識している。

死海文書が聖地エルサレムで書かれたという説もある(エルサレムは死海の近くにある)。
この説の傍証としては、「死海文書は思想的に幅が広く、多くの筆記者の手によっていること(文字の分析から最大750名の可能性)」が挙げられている。
また、1991年にイギリスから発刊された「死海文書の謎」では、
死海文書の出版が進まないのはカトリック教会(バチカン)の陰謀だと主張されている。
同書によれば、文書研究会委員長のド・ヴォーはバチカンから「写本の年代を紀元前二世紀として新約聖書の成立年代から極力離すこと」と、
「カトリック教会の教義をおびやかす内容がある場合、決して公表させないこと」という二つの指令を受けていたとしている。


259
このイッチこそロアとか都市伝説とか、明らかに人間のものとは異質の神秘性を感じる
ネット社会に生まれた人工知能かなんかだと考えるとまたロマンがある


260
ギガス写本(Codex Gigas)/悪魔の聖書(Devil's Bible)

「コデックス」は写本の形状の一種で、冊子状の写本を指す。
一方、死海文書など巻物状の写本は「スクロール」(或いはヴォリューム)と呼ぶ。

「ギガス写本」は13世紀初めにボヘミア(現:チェコ)で作られたコデックスで、中世期の現存する最大の写本。
正確な製作者は不明。完成までに20年以上を要したと見られている。
高さ92cm、幅50cm、厚さ22cm、重さ75kgで、その巨大さからギガスの名が付いた。
ヴルガータ版聖書を含み、他にも様々な歴史的文書が含まれ、全てラテン語で書かれている。

最大の特徴は、聖書の文献の後に掲載されている巨大な「悪魔の挿絵」であり、
悪魔に魂を売った僧侶がこの写本を作ったという伝説から「悪魔の聖書」とも呼ばれている。
そのほか、「命日入りのカレンダー」「魔法の作法」なども書かれている。


261
ストラダムスの預言書(Les Propheties de M. Michel Nostradamus)

正式名「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」。
フランスの医師・占星術師ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)の四行詩集を主体とした書籍。
かつてはオカルト書と扱われていたが、20世紀以降は文学作品としての評価・検討の対象にもなっている。
日本では1973年に、五島勉が「ノストラダムスの大予言」という、予言集に伝記や逸話を交えて解釈する本を発刊した。
その中で「1999年7の月に人類が滅亡する」という解釈を掲載したことにより、
公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなった。
生前に刊行されたのは642篇の四行詩と息子に宛てた序文のみで、
彼の氏後、国王アンリ2世に宛てた献辞(第二序文)と300篇の四行詩が増補・出版された。
ノストラダムスの氏後に増補されたものは、彼の自筆かどうかについて現在でも様々な議論がある。


262
>>261
お酢みたいな名前になってるけど、「ノストラダムス」のミスです
それと、「預言」⇒「予言」。予言の方を先の変換候補にして欲しい…


263
ノストラダムスの予言書 その2

ノストラダムスが未来を見通す能力を持っていたとする立場の者たちは、
百詩篇集には16世紀~遠い未来までの出来事が予言されているとして解釈してきた。
その過程で「的中例」の数々が喧伝され、いわゆる「ノストラダムス現象」の原動力となった。
しかし20世紀以降、彼が基にしたと推測される文献なども次々と明らかになっている。

百詩篇第10巻72番には、
「1999年、7か月、空から恐怖の大王が来るだろう、アンゴルモアの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために」という詩がある。

五島勉の書籍では「恐怖の大王」は「人類を滅亡させる何か」という解釈がとられていたが、
作家の山本弘らの検証で、五島が滅亡説の根拠として挙げていた史料や他の研究者の著書からの引用は、
いずれも五島の創作に過ぎなかったことが確実視されている。


264
アガスティアの葉(Nadi astrology)

紀元前3000年頃に実在したとされるインドの聖者「アガスティア」が、
太古に残した個人の運命に対する予言を伝えるとされる葉(葉というより木版)。
南インドのタミル語文化圏に保管されている。

葉は古代タミル語で書かれており、葉を読むことができるのは、
10歳前後から6年以上かけて特別な訓練を受け、代々「ナディ・リーダー」として運命づけられた人々のみとされる。
その数は総数800人といわれ、読むレベルには個人差がある。

日本では、1993年に青山圭秀が著した「理性のゆらぎ」で一躍ブームとなった。
現在そのブームは沈静化しているが、先行きの見えない不安な時代に、
自分の未来が描かれているとされるアガスティアの葉に助けを求める人は後を絶たない。
ナディー・リーダーの中には依頼者が中身を解読できないことをいいことにボッタクリする者もいるため、
信頼の置ける業者を選ぶことが大切とされる。


265
アガスティアの葉 その2

アガスティアの葉は1人に対して14種類存在するが、それ以外にも特別な葉がある。
第1の葉に人生全般が記載されていて、まずこの葉を開くことから運命を知る作業が始まる。
内容は個人差があるが、生まれた時の星の配置から今生の基本的性格がリーディングされ、
これまでの人生を軽く概観した後、現状と未来についての解説が始まる。

料金として、ナディ・リーダーの解説のために葉の検索料金と翻訳料を払う。
外国人が行った場合は通訳料も加わる。こうした料金は高額だが、5時間かけても見つからない場合は無料となる。
最初の葉に書かれている「運命」はきわめて凡庸であり誰にでも起こりうるようなこと(いわゆる「バーナム効果」)が多いとされている。
より詳しく知るためには、第2から第12の葉を開ける必要がある。
第14章では、今生における悪運から身を守るために「御守り」を作成し、身につけることが勧められる。
それには別途料金がかかり、更に高額なので勧めを拒む人も少なからずいるそうだ。


266
黒の書(The Black Book)/赤の書(The Red Book)
※未知の書物ではありません

「赤の書」は、心理学者ユング(カール・グスタフ・ユング)の著作。奇書に分類される事もある。
第一次世界大戦を前にして精神状態が不安定になり、分裂症(統合失調症)の傾向が強くなったユングは、
黒い表紙のノートに自分が見た夢やヴィジョンを書き記した。
これを「黒の書」と呼ぶ。

その後ユングによって注釈とイラストが追加され、赤い表紙の革装のノートに書き写された。
これを「赤の書」と呼ぶ。
イラストは鮮やかな色彩で描かれ、文字も中世の写本を思わせる装飾的なカリグラフィーで綴られている。
1914年~1930年にかけて作られたが、当時刊行はされず、黒いトランクに収められ、スイスの銀行の金庫で保管されていた。
遺族との交渉の末、2009年から各国語で刊行され、日本語訳は創元社から2010年に刊行された(1冊約4万円)。


267
コデックス・セラフィニアヌス(Codex Seraphinianus)

イタリアの建築家・工業デザイナーのルイージ・セラフィーニが著した書籍。
1976年~1978年にかけて制作され、現在の価格は5万~6万円、初版は200万円程の値段がついている。

本は約360ページで、未知の世界について、その世界の未知の言語で書かれ、
創作された挿絵が挟まれた百科事典のような外見をしている。
例えば、「奇妙な草花」「鳥類などの超現実的な変種」「奇妙な二足歩行の生物」「奇怪な機械と乗り物」
「人体に直接移植された工具」「人間であるかどうかさえ不明瞭な人々」「奇妙なボードゲーム」などが描かれている。

書記体系は西欧型の書記体系をモデルにしているように見えるが、曲線が多く、外見は草書体のグルジア語に似ているそうだ。
解読に成功した言語学者は表れなかったが、ページ数に使われている記数法は「21進数の変種」だと解読された。
なお、著者のセラフィーニによって、言語の背後に隠された意味はないことは明らかにされている。


268
リプリー・スクロール(The Ripley scrolls)

イングランド出身の作家・錬金術士のジョージ・リプリーが制作した錬金術書。
彼は15世紀に錬金術士として活動し、アウグスティノ会の修道士でもあったとされる。
変成転換と不氏の秘密を探し求めて20年近くもヨーロッパを旅し、
1477年にイングランドに戻って来た時は、彼がそれを見つけたのだと信じた人もいた。

本物のリプリー・スクロールは15世紀中に失われたとされているが、
現在、23の写本が存在しており、それぞれリプリー・スクロールと関連付けられたり、
或いはジョージ・リプリー自身が書いたとされているが、確固たる証拠はない。
写本の原本は大英博物館、ケンブリッジ大学などが所蔵している。

リプリー・スクロールは謎めいた一連の絵の中で、
寓話として名高い「賢者の石」がどのように作られたのかを示していると考えられている。
(その場合、他の錬金術書にも多い「ヒキガエル」がそのシンボルと考えられる)


269
怪奇と不思議の年代記(Prodigiorum ac ostentorum chronicon)

16世紀に活動したドイツの文献学者・モラリストであるコンラドゥス・リュコステネスの著書。
原題を直訳すると「予兆・前兆の物語」といった意味になる。
また、ルネサンス期に作られた本の中で、最も美しいものの1つと言われる。

自然現象を中心とした、文献から集めた1000を超える様々な事象を紹介する、百科事典の形を呈している。
例えば「カエルの雨が降る」といった有名な現象から、
超現実的な創作物(「人間のような動物」「首のない人間」など)が描かれている。
日本の記事で謎めいた奇書・予言書として紹介されていたが、
恐らく当時の神話や怪談・伝聞・伝説などをまとめて綴った本ではないかと思われる。


270
クリプトス石碑(Kryptos)

アメリカの芸術家ジム・サンボーンの彫刻作品。CIA本部に置かれている。
「Kryotos」(クリプトス)はギリシャ語で「隠された」を意味し、彫刻のテーマは「情報収集」である。
板面に打たれた文字群にはそれぞれの面に暗号が込められており、
1990年の完成以降、世界中の暗号マニアや暗号学者らが熱心にその解読に取り組んできた。

現在、4つの面のうち、3面までは既に解読されている。
4つ目の暗号は非常に難解で、世界的に有名な未解読暗号の1つとされている。
サンボーンは元CIA暗号センター長のエド・シャイトとともに彫刻に彫られる暗号システムを考えた。
彼は、この彫刻の謎の中にさらに謎があり、それは4つの暗号文章が解かれた時にのみ解くことができると明かしている。
また、近年に氏が同氏が明かしたヒントによれば、第4面の暗号文の中にある1節の97文字のうち、
6文字を解読すると「BERLIN」になるという。


271
ビール暗号(Beale ciphers)

1885年にアメリカで発行された小冊子「The Beale Papers」で紹介された暗号文。
※「ビール(Beer)暗号」ではない。
3枚の紙から成り、各々には「財宝の在処」「財宝の内容」「受け取り人」が書かれているとされる。

冊子によると、「トーマス・ビール」なる人物が、1820年にヴァージニア州ベッドフォード郡の秘密の場所に財宝を埋めたとされ、
その財宝は現在の価値に換算して6500万ドル(約70億円)相当と見積もられている。
彼は隠し場所などを示した3枚1組の暗号文を作り、
それを地元の宿屋の主人ロバート・モリスに預け、2度と姿を見せることはなかったという。
モリスは暗号解読を試みたが適わず、氏の直前、友人にこの暗号文を渡す。
友人は20年かけて暗号の解読を試みるが、2つ目しか解読できず、財宝の内容と大まかな位置しかわからなかった。
そこで彼は1885年に3つの暗号文と背景を載せた小冊子を発行し、世間に大きな反響を巻き起こした。


272
ビール暗号 その2

プロの暗号解読者達もビール暗号に挑戦している。
国務省情報部MI-8「ブラック・チェンバー」の設立者ハーバート・ヤードリーや、
日本の「パープル暗号」を解読したことで知られるウィリアム・フリードマンなど、
プロ・アマ問わず、多くの暗号解読者たちがビール暗号の解読を試みた。

しかし、長年にわたる解読への努力にも関わらず、何の成果も挙がっていないことから、
「筆者が読者から手掛かりを得るために暗号を改竄した」
「欲に目のくらんだ人々から金を巻き上げるためにでっち上げた」という説も挙げられている。
また、暗号を作ったというトーマス・ビールの実在も疑われている。

2枚目の暗号文で記された財宝は、35,052トロイオンスの金、61,200トロイオンスの銀、
1818年に1万3000ドル(現:18万ドル)相当とされた宝石で、重さは約3tと推定されている。


274
ドラベッラの暗号(Dorabella Cipher)

イギリスの作曲家エドワード・エルガーがドーラ・ペニーという娘に送った暗号の手紙。
1897年7月14日付の別の手紙に同封されていたこの暗号を、彼女はついに解くことができなかったといわれている。
ドラベッラ(ドーラの愛称)の暗号はその後も繰り返し解読が試みられてきたが、
21世紀になっても明快な解法は得られていない

暗号は3行にわたり、アルファベットのEのような形をした87字から成る。
エルガーは音楽とは別に暗号に関心を持っていたと言われ、彼が暗号の創作を試みたノートも見つかっている。
2007年、エルガーの生誕150周年を記念して、ドラベッラの暗号コンテストが開催された。
多数の応募があったが、疑問の余地のないものは一つもなかった。

なお、第二次大戦でドイツが用いていた暗号機「エニグマ」は、
エドワード・エルガーの変奏曲36番 「Enigma」 から取ったそうだ。
Enigma自体はラテン語に由来し、「謎」 を意味する。


275
シャグバラーの碑文(Shugborough inscription)

1748年~1763年にイギリス・シャグバラーに建てられた大理石の碑「羊飼いの碑」に刻まれた8文字の碑文。
リッチフィールド卿の庭園内に位置し、
フランスの画家ニコラ・プッサンの絵画を鏡像にした図と共に文字列が刻まれている。

文字列は、
  O. U. O. S. V. A. V. V.
D.               M.

または、 D. O. U. O. S. V. A. V. V. M.
と受け取れる。

これはラテン語のラブポエムとも言われているが、1982年に出版された「The Holy Blood and the Holy Grail」という書籍で、
荘園の持ち主であるアンソン家は13世紀初めに「聖杯」を発見したとされるテンプル騎士団と関係を持っていたとされ、
この碑の文字は「聖杯の在処」を示しているという説が挙げられた。

また、この本に影響されたダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」でも取り上げられ、世界的に有名になった。
ナチスドイツの暗号機「エニグマ」を解読した事で有名なイギリスのオリヴァー・ローンなど、
様々な人物がこの碑文の解読に挑戦しているが、250年間沈黙は破られていない。
(日本語版Wiki「聖杯」のページにある文字列は表記ミスになっているので注意)


276
Wow! シグナル(Wow! signal)

1977年8月15日、オハイオ州立大学のジェリー・エーマンが、
巨大アンテナ「ビッグイヤー電波望遠鏡」で受信した電波信号。
狭い周波数に集中した強い信号で、これは「太陽系外の地球外生命によって送信された可能性」が指摘されている。
望遠鏡は信号を72秒間に渡り観測することに成功した。

受信された電波は、恒星間の通信での使用が予想されていた水素線(波長21cm線)の周波数1420.406MHzに非常に近いものだった。
これは地球の電波が人工衛星等に撥ね返ってきたものではない根拠の1つとしても挙げられる。
驚いたエーマンはプリントアウトした表の該当部分を丸で囲み、「Wow!」と書き足した。
エーマンが丸で囲んだ「6EQUJ5」という文字列は信号の強度を意味している。
Wow!シグナルと同一或いは類似のシグナル検出の試みは、その後何十年にも渡り何度となく続けられてきたが、どれも失敗に終わっている。


277
レヒニッツ写本(Rohonc Codex)

未知の文字と書記体系で書かれた写本。
ハンガリーで発見され、正式名は「ハプスブルク帝国(現:ハンガリー)西部の都市、
ロホンツ(現:レヒニッツ)の写本」を意味する「Rohonci kodex」と付けられた。
判明している限りでは、最初の所有者は19世紀のハンガリー貴族バッチャーニ・グスターフ伯爵とされる。

この写本の正確な起源は不明で、伯爵家による1743年の蔵書目録では既に確認されている。
1840年頃から50年間にわたり様々な人々によって調査されたが、何も判明しなかった。
その後現在に至るまで、有効な解法は存在していない。
地元ハンガリーの学者の多くは、この写本を悪ふざけの産物とみなしている。
その場合、歴史的な贋作作家として悪名高いハンガリー人の古物商、
リテラーティ・ネメシュ・シャームエルの贋作と推察される。


278
レヒニッツ写本 その2

レヒニッツ写本は、縦12cm、横10cmの448枚の用紙で構成されており、
それぞれのページには記号が9~14列ほど書かれている。
この記号が何らかの文字なのか、それとも文字としての機能はないのかは判明していない。
この記号列以外にも、宗教的あるいは世俗的もしくは軍事関係と見られる光景が描かれた87点の挿絵が含まれている。
写本の中で使われている記号の種類は、既知のどんなアルファベットの総数より約10倍以上は多い。

1990年代中盤、コンピューターを用いて記号列の解析を行ったロチュマーンディ・ミクローシュは、
その後2004年~2005年の研究において「写本が捏造ではない」という確証を得るには至らなかった。
ただし、記号列の規則性を鑑みて「写本は全くデタラメな文章である」という説については否定している。


279
The Book of Soyga

世界的に有名な奇書「ヴォイニッチ手稿」に関する逸話の1つとして語られる書物。
「Aldaraia」とも呼ばれる。
イギリスの数学者・占星術師・オカルト信仰者・魔術師・錬金術師であるジョン・ディーは、
エリザベスI世に仕えた研究者であり、イギリス最大の図書館を所有する図書蒐集(しゅうしゅう)家でもあった。
ヴォイニッチ手稿は、彼のコレクションの1つとも言われている。
ジョン・ディーの日記には、「『Book of Soyga』の表(タブレット)さえ読むことが出来たなら」と記してある箇所があるという。

この書物については近年まで全くの謎だったが、ジョン・ディー研究家であり魔女の研究家でもある、
デボラ・ハークネス女史によって大英図書館、ボドリアン図書館からコピーが見つかった。
「Book of Soyga」の中身は、格子状に区切られたいくつもの枠の中に、英語のアルファベットが意味不明に並べられているというものだった。
1994年に発見され、研究者の間ではこの本こそがヴォイニッチ写本の元になった書物ではないかと考えられたが、
2006年の解読によって、黄道十二宮や惑星などに関する書と判明した。
「The book of soyga」はヴォイニッチ手稿ではなかった。


280
すごい情報量だなオーパーツだけでこんなにあるんだ
すげーな


281
The Book of Dunstan

もう1冊、ジョン・ディーが日記に記していた謎の書物があった。
それは「The Book of Dunstan」と呼ばれる書で、書物の中には不思議な文字が書かれていたという。
この書は彼が肌身離さず所持したもので、前述の「The Book of Soyga」は、
この書が当時の魔女狩りや魔術師への弾圧に遭う事を恐れ、身代わりとして創作されたものではないかとも推察されている。

また、この書こそがヴォイニッチ手稿の原本であるという説もある。
その場合、当時の皇帝ルドルフII世皇帝がジョン・ディーの持つこの書物に強い関心を示していたので、
ジョン・ディーはルドルフに書物を見せる・或いは売却しなければならなくなったが、
彼は「The Book of Dunstan」ではなく、そのダミー(写本・或いは歪ませた創作)である「ヴォイニッチ手稿」を渡した、という解釈があてられる。
また、これは唯一読むことの出来る「ヴォイニッチ手稿の通し番号」(ページ右上に振られた数字)から、
ジョン・ディーの筆跡がみられるという話にもつながる。

The Book of Soyga及びヴォイニッチ手稿の解説・推論ブログ↓
ttp://blogs.yahoo.co.jp/trademusicnation/66129311.html

ヴォイニッチ手稿の個人調査サイト↓
ttp://www.voynich.com/


282
ヴォイニッチ手稿(Voynich Manuscript)

1912年にイタリア・ローマ近郊の修道院(古くは歴代の法王たちの別荘)、
ヴィラ・モンドラゴーネで発見された古文書。
発見者であるアメリカ人の古書収集家ウィルフリッド・ヴォイニッチにちなんで、
「ヴォイニッチ手稿」或いは「ヴォイニッチ写本」と呼ばれる。

大きさは23.5cm×16.2cmで、左から右読み、現存する分で約240ページの羊皮紙でできている。
12、59、60、61、62、63、64、74、91、92、97、98、109、110番の計28ページは欠けている。
表紙は無地で、タイトルのようなものは一切書かれていない。
書物は未解読の文字で書かれ、彩色された様々な挿絵が描かれている。

文章に使用されている言語は現在まで何度も解読の試みが行われているが、解明されていない。
2011年にアリゾナ大学で行われた調査により、羊皮紙が1404年~1438年に作られたと判明したが、
その年代の羊皮紙が後の時代になって使われたかもしれないので、明確に制作年代であるとは言えない。
(しかし1404年頃に作られた可能性も見い出せる)


284
ヴォイニッチ手稿キターーーーーーーーー!


285
ヴォイニッチ手稿 その2

書の内容は、「未確認の(或いは実在しない)草花」「天体(十二星座など)」「生物学(解剖図と女性)」、
「薬草(植物の根)」 「宇宙(円、星、そして天球)」 などに分けて描かれている。
絵と文章を組み合わせたページが非常に多いのが特徴で、文章は絵を避けるように書かれているため、
最初に絵が描かれ、その後に文章が書き込まれたと考えられている。
また、使われている未知の言語は、繰り返しがとても多いという特徴がある。そして、一部を変えただけの単語も多い。

古物商ヴォイニッチが発見した手稿の表紙の内側には、「一枚のラテン語の手紙」が添付されていた。
これはプラハ大学の総長マルクス・マルチという人物が1665年頃に書いた手紙とされ、
「神聖ローマ皇帝ルドルフII世がこの手稿を600ダカット(数千万円)で買い取っていた」ことなどが記されていた。
また、手紙とは別に、手稿の最初のページの余白にほとんど消えかかった字で何か書かれていたが、
後の薬品処理で「Jacobus de Tepencez」(ヤコブズ・デ・テペネチ)というルドルフII世の医師の名前だった事が判明している。


286
ヴォイニッチ手稿 その3

手紙に登場する人物らが当時、別に書いていた手紙などから、以下の事が判明している。

・1576年~1611年、ルドルフII世が何者かから手稿を600ダカットで入手。
(前述:The Book of Soyga/The Book of Dunstanに登場した錬金術士のジョン・ディーという説がある)

・1608年~1622年、ヤコブズ・デ・テペネチが皇帝ルドルフII世から手稿を譲り受ける。

・~1630年、錬金術師のゲオルグ・バレシュが手稿を入手。暗号を解こうと奮闘するものの解明には至らず

・~1640年、バレシュの友人マルクス・マルチが手稿を譲り受ける。

・1665年頃、マルチが当時高名だったローマの学者アタナシウス・キルヒャーに手稿を寄贈(この時の手紙が手稿と共に見つかった手紙)

・約250年後の1912年、ウィルフリド・ヴォイニッチが手稿を発見。

ヴォイニッチ手稿の正体については、暗号によって書かれたという話以外に、
「人工言語説」「デタラメ説」「アウトサイダーアート説」「異言(トリップ状態で走り書きした文字)説」など、様々な説が挙げられている。

また、著者の仮定を錬金術士ジョン・ディーではなく、ボヘミアの錬金術師エドワード・ケリーとする説では、
錬金術に傾倒していたルドルフII世から金を騙し取るため、
もしくはライバルだったジョン・ディーをかつぐために偽造したという解釈があてられる。

ヴォイニッチ手稿を無料で閲覧・ダウンロード出来るページ(イェール大学図書)↓
ttp://brbl-dl.library.yale.edu/vufind/Record/3519597


290
ロンゴロンゴ(Rongorongo)

イースター島で19世紀に発見された、文字とも原文字とも見られる記号の体系。現在も解読されていない。
イースター島の土着語であるラパ・ヌイ語で「暗誦、朗誦、詠唱」を意味する。
ロンゴロンゴが「文字」であることが証明されれば、
人類史上において数少ない、独自に発達した文字体系の一つであることになる。

19世紀後半に、ロンゴロンゴの記された24の文字板(木片)が収集されたが、
風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。
これらは現在世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはないとされる。
1870年代、島の先住民にこれを読むことが出来た人がほとんど残っていなかったことから、
極少数の集団しかこれを読み書きすることができなかったと思われる。

別の見解として、元々文字は存在せず島民は口承で知識を語り継いでおり、
現存する全てがヨーロッパ人接触後に作成されたものである可能性がある。


310
>>290
これって現地の人が焚き火とかに使っとったんやっけか
勿体無いで・・・


292
キープ(Quipu/Khipu)

インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法。
キープはケチュア語で「結び目」を意味する。
紐の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれる。

紐は二本撚り以上になっており、さまざまな形の結び目がついている。
下がり紐は3本ほど~2000本近いものまであり、細い補助紐がつけられる場合もある。
レイランド・ロックの研究によって、十進法を用いていることが判明した。

キープは単なる記号以上の複雑な体系を持ち、「言語情報」を含んでいることが近年の研究によって明らかにされている。
王や役人は人民の統治に必要な情報などをキープに記録し、その作製および解読を行うキープカマヨックと呼ばれた役人がいた。
インカ帝国には「キープを教える専門の学校」が存在し、交叉型の分類、集計の混じった情報を扱うこともでき、数学的思考を可能とした。


293
シンガポール・ストーン(Singapore Stone)

11世紀~13世紀頃のものと思われる砂岩の厚板の断片に刻まれた碑文。
1819年に、一人の木こりによって発見されたといわれる。
当時、シンガポールリバーの河口付近には大きな砂岩(3m以上と思われる)があり、航海の目印となっていた。
石は河口を広げる工事のため1843年に爆破されたが、その時の破片が現在のシンガポール・ストーンとなっている。

石にはシンガポール最古とされる文字が刻まれているが、現在も解読されていない。
オランダの碑文研究者ヨハンヘン・ドリックカスカーンがいくつかの単語を解読することに成功したと発表しているが、
他の学者たちと見解が異なり、完全な解明には至っていない。


294
ダイトン・ロック(Dighton Rock)

アメリカ・マサチューセッツ州トーントン川の岸辺にある、およそ40tの岩石。
意味不明の文字のような、或いは線画のようなものが彫られている。
石には傾斜があり、六面体で、高さは1.5m、幅2.9m、長さ3.4m。

1680年にイギリス人入植者のジョン・ダンフォースが初めてこの石を世に紹介して以来、
300年近くにわたって多くの人々がその起源や意味を推測・解読しようとしてきたが、未だ謎のままとなっている。
1963年に保存のため移動された。
学者たちは、岩に刻まれているものはアメリカ先住民が起源のものだと考えているが、
北欧、フェニキア、ポルトガル、或いは中国に関連するという大胆な説もある。


295
沖縄のロゼッタストーン(Rosetta Stone of Okinawa)

日本の沖縄県で発見された石版。
1933年、沖縄県中頭郡嘉手納町にある野国総管の墓付近で、
熊本医科大学(現:熊本大)の学長・山崎正董と沖縄研究者・島袋源一郎により発見されたといわれる。
現在までに13枚発見されており、のちに1枚が紛失、現存は12枚。
一部が沖縄県立博物館・美術館に収蔵されている(資料名:「線刻された石版」)。

動物や船、農業作業、建造物と思われる絵のほか、「N」や「十」に近い簡単な模様が石版一面に刻まれている。
製作年代は不明とされ、何処の民族や文明由来のものであるかも不明とされている。
なぜ「ロゼッタ・ストーン」というあだ名が付けられたのかも分からないが、少々胡散臭い気もする
(一応Wikiも存在するが、出展の追記がなく、他のサイトでは雑誌「ムー」関連で登場したという記述が散見される)。


296
ファイストスの円盤(Phaistos Disc)

1908年にギリシャ・クレタ島南岸のファイストス宮殿の内部で発見された円盤状の遺物。
厚さ2.1cm、直径16cmの粘土製の円盤で、粘土のひもを渦巻き状に巻いて作ったことが判明している。
紀元前1600年頃、宮殿は火災によって被害を受けており、ファイストスの円盤も焼き固められた状態で見つかった。
ファイストスの円盤は、「線文字A」(後述)が書かれた粘土版が貯蔵された部屋で、水平に置かれた状態で発見された。

どちらの面にも「絵文字」が螺旋形に記されている。
両面を通じて登場する絵文字は45種類、241個。
ファイストスの円盤の解読は現在も進んでいない。
理由は主に3つあり、
「同じ文字が記された粘土版が他に見つからないこと」
「(特別な印章のため)定型文ではないこと」
「円盤に記された文字の数がギリシャ語の音節の数と合わないこと」が挙げられている。


297
線文字A(Linear A)

紀元前18世紀頃~紀元前15世紀頃まで、ギリシャ南部のクレタ島で用いられていた文字。
イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズは、1900年に3種類の文字群を発見し、
それぞれ「聖文字式文字」「線文字A」「線文字B」と命名した。
線文字Bは1950年代に解読されたものの、クレタの共通文字とされる線文字Aは現在まで解読されていない。

線文字Aは数百の文字を持つ。
それらは線文字Bに似た構造で音節・象形の意味を表すと考えられているが、線文字Aの表語文字の約80%が独特であるとされる。
また、これらはクレタ島で繁栄した「ミノア文明」独自の言語と思われがちだが、
関連する線文字Bはギリシャ本土で同文字が記された粘土板が大量に発掘された。
(当初、エヴァンスはこれらをミノア文明の独自言語だと誤って推測し、解読は絶望視されていた)


298
<その他>

データの保存期間・寿命について
(温度・湿度など良好な環境を維持出来た時の数値)

「ハードディスク」⇒5年程度
「フラッシュメモリ」⇒5年程度
「CD-R」⇒10年~30年
「光ディスク」⇒10~30年
「磁気テープ」⇒30年以上
「紙(酸性紙)」⇒50年~150年
「マイクロフィルム」⇒500年
「紙(中性紙)」⇒250年~700年
「和紙」⇒1000年
「光ディスク(基盤にガラスを使うもの)」⇒推定1000年
「デジタルロゼッタストーン」⇒推定1000年(京都大・慶応大・シャープ開発)
「DNAメモリー」⇒数千年
「石版」「粘土板」⇒数千年~数万年
「単結晶シリコンの面にレーザーを照射」⇒推定100万年
「石英ガラスにレーザーを照射」⇒推定3億年(京都大・日立製作所開発)


299
文明について(Civilization)

日本では、「メソポタミア文明」「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」の4つが、
「世界四大文明」として認識されていた(近年の教育は少し変化)。
しかし「メソアメリカ文明」「アンデス文明」などアメリカ大陸の文明は含まれていない。

この「四大文明古国」という考え方はアジアでは広まったものの、欧米では受け入れられなかった。
また、考古学研究が進展した現代では、初期の文明をたった4つに限定する見方は否定的であり、
四大文明という概念自体が知識に乏しかった過去のものといえる。
現在では更に古い文明が世界中で発見されており、四大文明という概念自体の見直しが検討されている。

⇒新石器時代などの先史を除く文化(年代については多々議論がある)
※先史が入ってたらゴメンナサイ

「肥沃な三日月地帯」(シリア周辺)⇒紀元前11,000年頃
「シュメール文明」(メソポタミア)⇒紀元前6500年以前
「アンデス文明」⇒(南アメリカ)⇒紀元前5000年頃
「エジプト原始王時代」(エジプト)⇒紀元前4200年頃
「キクラデス文明」(ギリシア)⇒紀元前3000年頃
「アフリカ農耕文化」(アフリカ)⇒紀元前3000年以前
「ラッパーIIIA期」(インダス)⇒紀元前2600年頃
「トロイア文明」(ギリシア)⇒紀元前2600年頃
「メソアメリカ文明」(中央アメリカ)⇒紀元前2000年頃
「ローマ文明」(イタリア)⇒紀元前900年頃or紀元前750年頃
「ハルシュタット文化」(ヨーロッパ)⇒紀元前800年頃
「スキタイ文明」(遊牧民/ウクライナ周辺)⇒紀元前800年頃
「古代日本」(王朝時代)⇒紀元592年


301
脳の神経細胞と宇宙が似ているという説

「宇宙の成長過程・構造と大脳細胞の形成プロセス・構造が非常に似ている」という論文が、
科学誌ネイチャーに発表された。

左側の脳内神経細胞の写真は、脳内において特定の神経細胞同士が接続するメカニズムを研究するもの。
「薄くスライスしたネズミの脳を染色し、神経細胞同士の接続を可視化」してある。
右側の宇宙の写真は、「コンピューターシミュレーションによって、宇宙が成長・進化する様子を再現」したもの。
星々や銀河、暗黒物質がクモの巣状に大銀河団(黄色い部分)を取り囲んでいる現在の宇宙の姿とされる。

これは、自然界において結晶構造が似るように、或いはハニカム構造などのような、ある種の必然性(最終的な安定性)を持ったもの、
もしくは人間の視覚効果によって似ているように見えるのかもしれない(例えば「パレイドリア効果」のように)。
またはフラクタルのような話に落ち着くんだろうか。なんにしろ、奇妙な一致である。


302
月の裏側(Other side of the Moon)

「地球からは見ることが出来ない月の裏側には宇宙人の基地がある」という説がある。
月は自転と公転が同期している(常に地球に同じ側を向けている)ため、
地球からは月の裏側はほとんど(表に近い約18%しか)見ることが出来ない。
月の裏側は、1959年にソ連の月探査機ルナ3号が初めて観測した。
特徴として、海がほとんどなく(表30%/裏2%)、高低の起伏が激しい(最高点/最低点ともに裏側)。

月の裏側は、月探査機「かぐや」の観測結果をもとに、
日本の国土地理院が作った「月の赤色立体地図」でも公開されている。


303
このスレはあくまでも「第一歩」としての存在で、情報量はごくわずかです。
ロマンと不思議の世界へ興味を持っていただければ幸いです


終わりンゴ


315
面白かったで
乙!


316
面白かったわ
これが入門の知識て相当奥深いんやな


318
イッチ面白かったで久しぶりに神々の指紋でも読むか



引用: http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1441004610/