1
誰だと思う?
俺は真田昌幸だと思う。



2
直江兼続も良いな?


9
真田昌幸はやっぱり籠城戦の名手やな?
直江兼続はやっぱり撤退戦の名手やね?





10
籠城したらアホでも勝てるんやで


11
>>10
豊臣秀頼・高橋鎮種「…」



13
>>11
昌幸が同じ状況で勝てますか?


15
>>13
勝てる可能性は大いにある?



18
>>15
昌幸の強さの一部は武田の陣立て(兵科別の運用)に寄るところも大きいから
九州勢には勝てへんやろなぁ


19
>>18
昌幸は楠木正成を参考にしてるよ。



20
>>19
楠正成は兵科の区分はしてないで


21
>>20
ちがくて戦術について参考にしてるよって意味



22
>>21
ゲリラ戦術という意味ならそうやけど
戦国時代にはほとんど戦術が存在しとらんのやで


23
>>22
昌幸の戦法は別格に凄いだろ。卓抜してるよ。



24
>>23
戦法なんかないで
兵科の個別運用によるレンジもしくは速度差だけやぞ


25
>>24
いやゲリラ戦術は凄いだろ!あなたは偏りすぎてるよw



26
>>25
というか、ゲリラ戦術使えば誰でも一応負けないんやぞ
村上義清とか、あと長宗我部に対抗した本山なんやったかな・・・


27
>>26
いや負けるときは負けるだろw



16
大名としてなら信長やな
武将としては昌幸
戦士としては本多忠勝


17
今、佐久間盛政調べたけど戦国一の武将ってどういうこと…こんな有能な武将見逃してたとは不覚…
>>16一理ある。



28
本山親茂やった


29
村上とか本山だって結局は負けたんだよ。


30
武田が村上に負けたのは敵の目の前で首実検する板垣さんサイドにも問題がある


31
>>30
砥石崩れは村上が凄いって言うより武田がアホすぎただけだからな。



35
>>31
てか武田て無双してるわけではないんか?
信濃にてこずりすぎてた印象
駿河とか関東にも進出したけどさ 村上とか長野があるから


39
>>35
確かにな!信濃攻略20年かけてるからなw



32
勝ったものが強いから徳川家康だぞ


33
>>32
脱糞臆病狸はごめん被る



41
>>33
軍事的総司令官かつ家門の最高権力者としては漏らしまくりながらでも
逃げに逃げるのが最適解の行動やで


43
>>41
一理ある。



45
>>41
百里ある


34
藤堂高虎


37
>>34
築城術は凄い。



36
わりとマジで島津豊久


42
>>36
サツ戮マシーンならこいつやろな
九州勢だけ戦の死傷率おかしいんだよなぁ


44
>>42
それ親父の家久と勘違いしてる?



46
>>44
突っ込んで氏んだ奴高評価にしたらあかんのか?


48
>>46
豊久は叔父さん守るためにだからな…



56
>>36
島津なら家久やないの?


59
>>56
確かにな?



52
本州の戦闘だと幹部クラスは負けても逃げてる
九州の戦闘だと負けたら幹部は氏ぬ

接近戦しすぎなんだよなぁ、九州は鉄砲のイメージなんやろけど


53
>>52
ヒント 釣り野伏



55
>>53
鉄砲の方が弓より射程短いぞ


62
少なくとも1570~1589までの秀吉は武将・大名として最強と思う


64
>>62
なお1591年利休を追い込む・1595年畜生関白ならぬ畜生太閤になる模様



72
戦国一の武将候補誰か並べて


74
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
上杉謙信
武田信玄
毛利元就
伊達政宗
斎藤道三
宇喜多直家


81
出羽人 下品で野卑だが勇敢で礼節を知る?
常陸人 サツ人や強盗を好み肝が太い?
下野人 勇敢だが非道な行いを好み言葉は野卑?
安房人 剛質な意地っ張りで死を恐れない?
武蔵人 器が大きく名人の気風を持つが驕りもみえる?
甲斐人 勇敢だが道徳に欠く?
越後人 武勇を好む負けず嫌い?
加賀人 能ある鷹は爪を隠す?
越前人 知恵があり弁舌に優れるが高慢?
三河人 背丈は低いが義理堅く命を惜しまず女もけなげ?
尾張人 善悪合わせ持つが男の言葉は爽やかでよい?
美濃人 水晶のような心根を持つ?
山城人 女は美しいが男は軟弱?
摂津人 欲張りな上臆病で薄情?
和泉人 軟弱、臆病、軽薄で狐に似ている?
紀伊人 日本一欲深い?
播磨人 悪賢い?
丹波人 惰弱で諂う心が強い?
伯耆人 虚実半々で勇気が足りない?
備中人 意地が強く勇気がある?
長門人 落ち着きがある?
讃岐人 気弱で諂う心が強い?
阿波人 素直で知恵がある?
土佐人 言葉は野卑だが素朴で実直?
伊予人 海賊?
筑前人 派手好きな大酒飲み?
肥前人 義理堅く武勇に優れ命を惜しまない?
薩摩人 無作法だが戦場では死を恐れず勇猛
球場ファックターみたいなのいるわ


82
>>81
面白い考察だな?



83
>>82
考察というか兵の強弱は出身地によるって当時から言われてるやで


84
>>82
室町時代の県民性ガイドブックやで


85
>>84
えーそうなのか。ガイドブックなんてあったんだなこういう。



88
>>81
東京は武蔵人でいいんご?


89
>>88
そうだろうな!



99
>>81
ワイの故郷に何の恨みがあるねん…


101
>>99
ww



86
ちな日本一弱いのは尾張兵くさい


87
>>86
信長の時代は兵農分離された質の良いイメージだけどな。



90
>>87
なお、戦国時代はほとんどの武将が兵農分離してた模様


92
武器なしなら秀頼説出てきたな最近


94
>>92
巨体から放たれるカリスマ性と力



95
裏切り者ぽいぽい投げ飛ばすとか最強でしょ


96
>>95
さすが浅井長政の血引いとるだけあるな。



97
浅井長政も巨体だったらしいし。


98
島津家久
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
上杉謙信
武田信玄
毛利元就
伊達政宗
斎藤道三
宇喜多直家
佐久間盛政
真田昌幸
直江兼続
豊臣秀頼



100
単純な武力なら51歳の大阪の陣で19人倒した剣豪富田重政とかじゃね


103
>>100
うーん



110
>>103
高齢で隠居の身やったけどこの記録やで
他に首級多く上げたのって可児才蔵とかか


114
>>110
家久とか盛政とか勝永とかに及ばない



119
>>114
勝永は最後に一花咲かせた武将の典型やろなあ
大坂の陣って幸村 勝永のように最後に働き場所を得た武将と
三好正康のような戦国初期を生き抜いた亡霊のような老人が同じ陣営で戦ってる
そのへんが面白い


121
>>119
確かにな。豊臣方って面白いよな。戸次川の被害者の子孫がみんな豊臣方



126
>>121
大谷吉継の息子や加藤清正の弟も豊臣方についてるし
一人一人の経歴をみると結構有名武将の子孫がいるんだよなあ


128
>>126
大谷吉治な
関ヶ原が伏線みたいになってて熱いわ


130
>>128
真田信繁の義弟



102
真田昌幸は地元でしか戦ってないから参考記録


104
>>102は?


105
>>104
忍城攻めミスってたし


107
>>105
それ石田三成



108
>>107
一緒におったやん親子で
ついでに家康も


111
>>108
昌幸は前田・上杉と行動後忍城攻めに参加



113
>>102
これなんだよなぁ
例えば目標を上田城落城に絞ったら島津家久なら落とせたんちゃうかと


115
>>113
言うても第二次の時は徳川主力だよ。



116
>>115
だから無駄に消耗したくないんで昌幸が時間稼げたやんけ
目的が違うんや


118
>>116本気で攻めてたよw


112
織田がつき
羽柴がこねし
天下餅
座りしままに食らう徳川
こんなざれ歌もあったなあ


117
>>112
懐かしい小学生の時習ったな



120
各々1,000の兵士与えて誰が一番強そうか
各々10,000の兵士同士なら
で結果変わりそうわね


122
>>120
それな…



123
長曾我部盛親も関ヶ原の時と違って奮戦してるし
最終決戦で特攻をかけて行方不明になったキリシタン武将明石全登も味があっていい


125
昌幸がすごくなかったとは言わないけど、野球でホームの方が強いのと一緒で、他の地域だったらどうかわからん以上憶測にしかならんよなぁ
そういう意味じゃ全国区で活躍した黒田官兵衛はすごい


129
>>125
官兵衛は戦に勝つけど戦が強いわけじゃないんだよな
ガチでぶつからない戦に強い、秀吉と一緒やね


127
>>125
官兵衛は秀吉の側だから輝けた。



131
>>127
秀吉の家臣団を上手く動かしたわけだしな


132
>>131
うん。



133
>>132
確かに副官としての働きが目立つけど
関ヶ原の時は何気に九州統一を目指して戦ってた当たり主謀者としても活躍は出来たんやろ


135
武将というくくりではなく総合なら幽斎で終わりなんやけどな
どんだけマルチやねん


136
>>135
武将としては中途半端 文化人として一流のイメージ



140
>>136
田辺城の戦いの幽斎凄いで


146
鍋島直茂に島津軍扱わせてみたい


148
>>146
これは総崩れの予感



153
>>148
島津の最大の欠点は、戦闘狂ばかりで軍師らしい軍師がいないから城攻めが下手くそだったことだと思っている


155
>>153
立花山が例だね。



156
>>155
そう
40000で700落とせないのは島津サイドに問題があるわ


157
>>153
城攻めが上手い奴なんかおらんで
秀吉は城攻め(責めない)が得意なだけで


159
>>157
一理ある。



160
>>153
釣り野伏とかいう致死率100%の作戦をためらいもなく実行する島津
にも弱点はあったわけや


161
>>160
確かにな!



164
>>161
関ケ原に駆け付けた1500といい島津家の兵の行動原理だけはほんとに異質


167
>>164
すべては義弘のためだから忠誠心が異常



166
ワイ信濃県民、子供の頃に順当に真田ファンになるも
なんか信之や矢沢さんが活躍したのがほぼ群馬県と知り微妙な気持ちになる


170
>>166
??「孫の顔見に来ました」



181
秀頼と秀忠無双に出ないかな
バサラだと秀頼は秀吉と体型とか被るよな


184
>>181
秀頼は巨体説あるからな…どうだろうな…
秀忠は戦下手なイメージだからな…参戦は無理かな



186
>>184
秀頼実は有能
秀忠無難な凡人
こんな感じのイメージあるよな


187
>>186
秀頼は一流の英才教育受けて教養もあるからな。
秀忠は凡人よりの無能



192
>>187
家康と家光に挟まれてるから余計そう見える


196
>>192
確かになw



189
戦国武将で何の悔いもなく氏んでいった人ってマジで島津義弘やろ

朝鮮で無双して
九州支配して
関ヶ原生き延びて大阪で人質救って
家康脅しすなんてコイツ最強か


193
>>189
一理ある。



191
秀忠はあれだけの徳川譜代が支持してたから実はぐう聖なんじゃね(小声


195
>>191
家康のご威光



198
>>191
組織を重んじる三河武士の伝統がぎりぎりまだ生きてたのもありそう


202
>>198
組織を重んじるってのは戦国後期から江戸期のこの手の行動から逆に付けられたのでは?
当時は律儀者って評価だったような


205
>>202
家康が今川家に人質として取られてる間も当主不在で家を守ったくらいやし
なにがなんでも主家の安寧第一やったんやろ


210
>>205
水野家と地侍の関係ってそこまで伝統的なものじゃないし
本当に律儀なら守護とか担ぐやろ
家康にみんな期待してたんやないかな


211
賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因

『柴田合戦記』
・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆)
・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。
・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。
・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという
意気込みである。
・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必氏に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。
『太閤記』
・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣)
・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。
・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。
・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。
盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。
・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。
・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。
・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」
・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。

『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。
敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。

『渡辺勘兵衛記』
・撤退戦で奇襲部隊は善戦。
・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、
勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。
・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。
・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。
・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。



213
>>211
『一柳家記』
・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。
・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。
・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。
・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。
・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。
・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。
・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。
・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。
・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。
・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。
『江州余吾庄合戦覚書』
・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。
・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。
・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。
『佐久間軍記』
・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。
・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。
・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。
・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。
・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。
・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。

各史料で合戦の様子には差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として、
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。
ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。



212
家康「お前ら頭下げに来いやこら」

義久「腹痛いからまた今度でwwwww」

家康「早く来い!」

義久「金欠なんやすまんな」

家康「……」

義久「うちを改易したら海賊になって貿易船荒らすで」

家康「よ…義久は友達だから義弘は許す…」

義久「やったぜ」


216
>>212
このコントほんとすこ


215
>>212
義久「弟がやったことなんで…」



218
>>215
まあ家を割って両陣営につくなんてあちこちやってたことやしね


219
>>218
確かにな!



220
>>219
蜂須賀
真田
この辺りも同じことやってるわけやから


221
>>220
義久は東軍よりなのかな?



222
>>221
そのへんはどうなんやろ
ただ両天秤にかけるくらいのことはしてたやろなあ


223
>>222
しかも最初義弘は伏見城に入りたかったんだよな。



226
>>223
そうそう
それで結果的には西軍にとどめおかれることになったけど
ただ実際問題島津の兵が入っても落城は免れんかったやろなあ


229
>>226
鳥居「島津?そんなの殿から聞いてないからポイーで」



224
伏見城とかいう珍しく落城した近代城郭


225
>>224
大阪城「…」



230
秀頼が関ヶ原でてきてたらカオスになってたろうな


233
>>230
西軍として出てきてたら結果からして変わりそう


238
>>233
大阪夏の陣の伊達家の編成・・・なんと半数が鉄砲隊

まともに戦う気ゼロやったんやね・・・


241
>>238
槍兵が中心の真田隊にも追い返される竜騎兵w


244
>>241
でも、前線張らないで味方ごとなら撃てるからへーきへーき


234
>>230
一理ある。福島は必ず寝返る



232
当時は義久義弘で対立的な関係(といっても、義弘は義久を当主と思っていた、外から見たら義弘が当主に見えた)で、義久は大のアンチ豊臣で、家康とは面識あったけど、関ヶ原は中立的な立場だった
でも、それだと東西どっちが勝っても責められるから、義弘が豊久連れて一人で関ヶ原に向かった
そしたら1500くらい志願兵が出てった

ちなみに本国には30000くらい兵がいた


237
>>232
残当ってこと



248
>>232
兵出せばよかったのに・・・


250
>>248
どっちにつくかが問題になる


253
>>250
勝ちそうなのは東軍だけど
勝って欲しいのは西軍


255
>>250
夜兎とかサイヤ人みたいな連中が西に着いてたら結果どうなったかわからんな


258
>>255
宇喜多小西石田大谷の4隊で東軍と互角に戦ってたくらいやから
そこに島津が加わるともう形成は逆転してそう


235
バサラの勝家の勝家感のなさ
ひどい(断言)


239
>>235
??「なんでワシが病のせいで他人を恨んでるの?」



236
戦国立志伝だと、鳥居と徳川が共謀して島津を石田方につかせて、三成ごと葬り去ろうとしたって話になってたな
面白い説ではある


245
>>236
鳥居「既にリスキーなのにリスキーすぎる作戦ですね」



252
吉川小早川とかいう毛利一門だけで決着がついた関ケ原・・・


254
>>252
二代目両川無能説



256
>>254
小早川は無能なのを知ってて引き取ったし吉川も経験値が決定的に不足してたからしゃあない


259
>>256
吉川弘家は大ベテランだぞww同じ元就の孫の秀元より30歳くらい上だぞ



260
>>259
訂正 吉川弘家? 吉川広家?



263
>>259
家康とかいう狸爺を相手にするにはそれじゃあダメなんだよなあ


264
>>263
家康に直接会わないで約定しちゃう無能



257
利家の遺言破った加賀の利長も大概
母親の人質はでかかったか


262
>>257
直江「腰抜けの前田とは一緒にしないで」



278
しかしあれやな安国寺とか長曾我部とか傍観組ってどんな気持ちで
戦場眺めてたんやろな


279
>>278
南宮山「お前ら見えてないだろ関ヶ原w」



280
>>278
「そうや!元から東軍やったって言おう!!」


281
>>280
うーんこの


282
>>280
安国寺斬首・長束切腹・長宗我部改易



283
>>282
大坂の陣で覚醒する長曾我部はともかく
安国寺の無能ッぷりは目も当てられない


285
>>283
吉川「やったぜ安国寺逝ったwwwww…これで毛利も安泰」←無能



286
>>283
???「秀吉って奴は優秀やで、信長はエクストリームハイジャンプで転ぶやで」


289
>>286
なお安国寺は吉川の背信を予感できなかった模様



284
直茂「息子が勝手に西に着きました、ほら謝れクソガキ」


287
>>284
??「裏切りやがって…」



288
五大老と五奉行の大半が味方したにも関わらず敗退した西軍とは一体…


291
>>288
小早川朽木赤座脇坂小川勢「申し訳ない」
傍観勢「おっ、そうだな。」
大津城、田辺城勢「アハハ!」


292
>>291
大谷平塚戸田「…」


309
毛利元就とか大内の配下からかたや10カ国の大大名に成長したけどどうなんやろか


313
>>309
元就は厳島の戦いで勝ったから飛躍できたな



315
毛利家は10カ国といっても地方豪族の連合体みたいなもんやのに
1代しか使えてない清水宗治が命はったんやから
よぉわからんね


317
>>315
元就は慕ってくる家臣は大事にしたからな。



318
>>315
宗治さんの個人的な潔さもあったんやろなあ


319
>>318
隆景が説得したのも要因かもね。隆景「お前が切腹したら毛利は助かる」と説得した模様



320
>>318
まぁ、よぅわからんと言いつつ
結局距離感もあるんやろうな
道が発達してないので近所の人間にしか親しみを持てないんやろうなぁ


321
結局戦国一の武将は誰なんだ…


324
北条早雲やぞ


325
>>324却下


326
早雲より氏康ちゃうか?


327
>>326
確かにな…どっちかというとな



328
>>327
戦国っていってもそれぞれの時代があるからなあ
先駆者を評価するのか終焉を形作った武将を評価するのか…


332
>>328
信長以前が先駆者
信長時代が中間
信長以降が晩期戦国大名
こんな感じかなあ


333
>>332
難しいけどそうだな。



329
間は?


330
守護の今川家を補佐しつつ公方をころして下克上もやった早雲がナンバーワン!


331
>>330
早雲は…ない



334
やっぱり戦国時代を終焉に導いた信秀家の誰かが一番仕事したゆうことちゃうんかなあ


335
>>334
なんか趣旨変わってない?



338
>>335
有能の定義が仕事の大きさやったら上の三人の誰かやと思うし
強さやったらそれ以外の武将にも目を向けなあかんとも思う


339
>>338
だよな…



336
信長はパイオニアといいつつ自分が最初に始めた政策がないんだよなぁ
丸パクリばっか
それに比べたら早雲は最初の下克上やってるし行政官としても一流だし
戦は負けないし生きてる間に領土が拡張する一方やったし
超有能


337
>>336
北条の全盛期は氏政の時代なんだよな…



340
戦闘ユニットとしての強さなら上杉謙信でええんやで


341
とりあえずスレ主の俺寝るわ 
島津家久
佐久間盛政や
真田昌幸
直江兼続
上記四人を戦国一の武将候補として推薦する。



342
個人としての強さだったら北畠とかかな


343
訂正
とりあえずスレ主の俺寝るわ 
島津家久
佐久間盛政や
真田昌幸
直江兼続
上記四人を戦国一の武将候補として推薦する。

とりあえずスレ主の俺寝るわ 
島津家久
佐久間盛政
真田昌幸
直江兼続
上記四人を戦国一の武将候補として推薦する。



344
おやすみ


345
>>344
おやすみ~






引用: 戦国一の武将は?