1
時刻は午後10時過ぎ、とあるビルの屋上で、私は一人佇んでいます。塔屋と貯水塔の他にはなにもない、がらんとした場所です。ここに勤める無気力な会社員や怠惰な管理人なんかはいままでここへ上って来たことがありません。つまりここは私だけの秘密基地なのです。


2
私はいつもの定位置、塔屋の対角に立って眼下の街を見下ろします。
そこにはきらびやかなビルやマンションなんかが立ち並んでいます。その隙間を縫うようにコンクリートの道が縦横に這っていて、そこを雑多な人影がうごめいています。
それはいつも通りの景色でした。


3
私は一段高くなった縁に上ります。すると靴下を介して金属の冷たさを足裏に感じます。そこで両腕を広げるとびゅうと吹く冷たい風を全身に感じます。手すりなどありません。一歩先には奈落。もし足を踏み外したりなんかしてしまえば、きっと私はひとたまりもないでしょう。


5
「……はぁ」
 一呼吸して縁から降りて、蹲ります。そして自分の右手首に目をやります。右手首には古びたミサンガが巻きつけられています。ミサンガは今日も切れる気配がありませんでした。


6
不意に、正面からぎいと錆びたドアの鳴き声がしました。塔屋です。そこから誰かがやってくるようです。私はいままでにない事態にびっくりしながら、あわてて靴を履き、スカートを軽くはたいて、荷物をしまってバッグを肩にかけました。


7
ドアを開けて出てきたのは、スーツ姿の男性でした。その男性は背が高くひょろひょろと、まるで牛蒡みたいな形をしていました。顔立ちは、まあ整っているようです。
私は動揺のあまり彼をまじまじと見つめてしまったのですが、ふと我に返って視線を逸らします。しかし彼はまっすぐ私の方へと歩み寄ってきて、私に話しかけてきました。


8
「ねえ、君。ちょっといいかい?」
「私ですか?」
 私が聞き返すと、彼はそうだ、と肯定します。そして彼は続けて、こんな珍妙な質問を投げかけてきたのでした。
「君はいま静止しているか?」
「はい?」
 私には彼が何を言っているのかよくわかりませんでした。


9
「君はいま静止しているか、と聞いたんだ」
「……えぇと、たぶんしているんじゃないですか」
「そうかい。君は君自身が静止していると思っているんだね」
「えぇ、まあ」
「実はそれは間違っている」
「はい?」


10
「君は地球の自転速度を知っているかい?」
「いえ、知りませんが」
「地球の自転速度は赤道上でおよそ時速1700km、ここ日本でいえばおよそ時速1400kmになるんだ。つまり君は地球の外から見たとき時速1400kmというものすごいスピードでぐるぐるまわっていることになる」
「はあ、そうなんですか」


11
「さらに地球は太陽の周りを公転していることが知られているね。地球の公転速度はおよそ時速10万km。つまり君は時速10万kmもの速度で太陽のまわりをぐるぐるまわっていることになる。
さらに太陽を中心とする我々の太陽系はそれ自体が銀河系をぐるぐるとまわっている。その速度はおよそ時速88万km。つまり君は時速88万kmもの速度で銀河系の中をぐるぐるとまわっていることになる。
さらに太陽系を含む銀河系はそれそのものも宇宙空間を移動しているのだそうだ。その速度はおよそ時速216万km。つまり君は時速216万kmもの速度で宇宙空間を漂っていることになる」
「……」


12
「さらにこの宇宙空間全体は……」
「あの」
「なんだい」
「つまり何が言いたいのでしょう」
「たとえ人間が本気の本気で走ったとして時速36kmがいいところだ。たまに立ち止まったって、宇宙全体からしてみればそんなのは誤差にすぎない」


13
「えぇと……?」
「たとえ君がそこから一歩足を踏み出して自由落下したとして、地面との接触時点で時速およそ200km。それも結局誤差の範疇だ」
「……そうですか」


14
そこで私は我に返って、彼への警戒心を取り戻します。そして、聞きそびれていた質問をすることにしました。
「そもそもあなたはだれですか?」
「ああ、いや、ただの通りすがりだよ」
「なにしに来たんですか?」
「僕は暇を持て余していて、そうだな、話し相手が欲しかった」
「……」
 彼の返答は明らかに怪しいものでした。


15
「そう警戒しないでくれ。本当にたまたま通りかかっただけなんだ」
 彼は弁明するように言います。
「たまたま、ビルの屋上に、ですか?」
「そう」
「こんな夜中に」
「ここは僕の秘密基地でね」
「……秘密基地?」


16
すると彼は私の足元を指さします。
「ほら、そこを見てくれ」
 視線でその先を辿ると、さっき私が立っていたあたりの縁の部分に、何やらキラキラとしたキャラもののシールが貼ってあるのが見えました。
「……?」
「お菓子のシールが貼ってあるだろう?それは僕がここを不法占拠している証だ」
 つまりそのシールをもって、彼はここが自分の領域だと主張したいようでした。私は呆れて言います。
「いい歳してなにしてるんですか」
 すると彼は、
「まあまあ、それはお互い様じゃないか」
 と返してきました。
「……」
 私はとっさに言い返そうとしますが、適当な言葉が見当たりませんでした。


17
彼は別の方向に向き直ると、私の返答を待たずにまた話し始めます。
「ここの景色はきれいだね」
「ええ」
「僕はここから見える景色が好きなんだ」
「へえ」
「ここから見るとね、世界は案外小さいものなんじゃないかって思えるんだ。単純な遠近法だけどね、ずっと向こうの小さな海岸線だって僕の手の届くところにあるような気がする」
「そうですか」


18
「ここからはたくさんの人が見えるね」
「そうですね」
「あの一人ひとりがなにかを考えたり、なにかに悩んだりして日々を生きている」
「かもしれませんね」
「そうやって世界が回っていて、そんな世界に僕もまた生かされている。そういうのを感じるのが好きなんだ」
「……そうですか」


19
彼はようやく口を閉じました。ただ黙って夜の街並みを眺めています。結局彼が何をしに来たのかさっぱりです。
「言いたいことはそれだけですか?」
「まあ、とりあえずはそうだね」
「じゃあ私はこれで失礼します」
 そう言って、私は彼から自然に距離を取りながら、その場を立ち去ろうと背を向けました。ようやくここから離れられる、私はわずかな安堵を覚えながら塔屋へと向かいます。しかしすれ違いざま、彼は思い出したようにまた口を開きました。
「あ、そういえばもうひとつ」
「……なんですか?」


21
「明日もここに来ていいだろうか?」
「来ないでくださいと言ったら来ないんですか?」
「いや、来るよ」
「ならべつに私に断る必要はないかと」
「それは良かった。明日もお邪魔するよ」
「……明日はいないかも知れませんけどね」
 その時、私に一つはっきりとわかったのは、この瞬間、『私だけの秘密基地』はもはや私の領域ではなくなってしまったということです。


23
………

深夜、わたしは一人、まばらに街灯の生えた薄暗い道路を歩いている。未成年の少女がこんな時間に一人歩きなんて、お巡りさんにでも見つかったら厄介だ。わたしは少し足早になりつつ、こっそりと駅に向かった。
そんな道中のことだ。わたしの前に一人の少年が現れた。そいつはとても変な奴だった。突然電柱の影から現れてわたしの目の前に立ちはだかると、わたしを呼び止め、自分は天使だなんて言い始めたのだ。


24
相手にするのも馬鹿馬鹿しい。そう思い足を早めるが、無視しようにも執拗に絡んでくる。
 こんながきんちょを放っておくなんて、ここら辺のお巡りさんはちゃんと仕事をしているのかとか、こいつの親は何してるんだとか色々言いたいことはあったが、わたしはそれについてとやかく言えるような立場ではなかった。
 しばらく無視を決め込んで見たが、そいつは一向諦める気配がない。騒がれても面倒だし、わたしは観念してそいつに少しだけ付き合ってやることにした。

……


25
次の日も、彼は屋上にやってきました。
「やあ、どうも」
「……どうも」
「よかった。実はもう会えないんじゃないかと思っていた」
「暇そうですね」
「暇なんだよ。君こそ暇そうじゃないか」
「私は見ての通り忙しいのです」
「さいですか」


26
彼は何食わぬ顔で私から少し離れた位置に座ります。
「今日はなんですか」
「たまたま通りかかった」
「鬱陶しいですね」
「冗談だ。ここの景色を見に来た」
「そうですか」


27
このへらへらとした受け答えに苛立ちを覚えた私は、さっさと帰ってしまおうかと迷いました。ですがそれでは私が彼に根負けしたようで気に入りません。なので私はなるべく彼を視界に入れないように街を眺めることにしました。


28
彼は座るなりこんなことを言い出します。
「そういえば、いまお腹が空いていたりしないか?」
 相変わらず質問の意図がよくわからないので、私は曖昧に返答します。
「……?……ええ、まあ」
 すると彼は傍に抱えた紙袋を差し出してきます。そして、私は自分の返答が失敗だったということにすぐに気がつくことになりました。
「ちょうどよかった。ここに焼きたてのパンがある。君もたべるといい」


29
「結構です」
 私が拒絶すると、彼は不思議そうに尋ねてきます。
「僕が信用ならないかい?」
「当然ですね。あなたと私は他人です。見知らぬ他人から渡されたものを食べるほど不用心ではありません」
「昨日会った」
「見知らぬ他人です」
「これは駅前のパン屋で買ってきたものだ。封も開けていない」
「それでも嫌です」
「なら、僕が先に食べよう。2つあるから君は好きな方を選べばいい」
「そのパンが安全なものかどうかとは別で、あなたからものを受け取りたいとは思いません」


30
私がきっぱりと断ると、彼はまた不思議そうな顔をして尋ねてきます。
「他人から施しを受けるのが嫌なのかい?」
「まあそんなところです」
「でもお腹はすいているんだろう?」
「……よく考えたらそんなに空いていませんでした」
 しかし、そう言うと同時に私のお腹が鳴りました。私は彼から視線を逸らします。


31
「ふむ、じゃあこうしよう。僕はいま他人にパンをあげたくてあげたくて仕方なくなってしまう病にかかっている。この病の治療法はただひとつ。他人にパンをあげてその人がパンをたべるところを目の前で見届けることだ」
「そうですか、それと私になんの関係が?」
「この病の厄介なところは日に日に悪化していくところだ。きっとこのまま放置すれば一日ごとに持ってくるパンの量が増えていく。1週間もすれば両手に余るほどのパンを買ってきてはこの屋上に置いていくことになるかもしれない」


32
彼は非常に強情でした。差し出した紙袋を引っ込める気配はありません。これ以上言い合っても埒があきません。私は仕方なく折れることにしました。
「……そこまでいうなら」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 私は渋々、彼の差し出した紙袋の中からパンを一つ取り出します。
「どういたしまして」
 私がパンを受け取ると、彼は顔をほころばせました。


33
ところで、と彼はパンをかじりながら話を切り出してきます。
「君はこのパンがどこから来たか知っているかい?」
「どこからって……駅前のパン屋のパンですよね」
「そう。駅前のパン屋のパンだ。パン屋はこのパンを作るために小麦粉を仕入れる。さて、じゃあその小麦粉はどこから来たと思う?」
「輸入されて海外から来ているんじゃないですか?」
「その通り。日本で消費する小麦の約9割は輸入されていて、そのうち3/5はアメリカから輸入されている。つまり普段口にするパンは5割くらいの確率で、遠くアメリカから旅してきたともいえるわけだ。そうでなければカナダかオーストラリア、まれに日本」
「そうですか」


34
「では日本からアメリカまでの距離はどのくらいか知っているかい?」
「いえ、知りません」
「およそ1万kmだ」
「1万km」
「さて、直線距離で1万km。仮に日本からアメリカまで一直線の長い長い橋が架かっているとして、それを徒歩で歩くとしたらどのくらいかかると思う?」
「さあ、少なくとも数年はかかりそうですね」
「実は1年かからない」
「へえ」


35
「じゃあ逆に人は歩いてどこまで行けるか」
「どこまで?」
「一生歩き続けるとして、どこまで行けるか」
「想像もつきませんね」


36
「睡眠や食事、休憩の時間を除き、それ以外の時間はずっと歩き続けるとすると、人は1日に30kmほどの距離を進めるらしい。人の寿命を約80年として80年間ひたすら歩き続けると仮定すると、一生に進める距離はおよそ876,000kmとなる」
「それはまあ、すごい距離ですね」
「だいたい地球22周分。地球から月まで、余裕で行って帰って来られる距離だ」
「月ですか」
「そう、人は歩いて月まで行ける」


37
「しかし宇宙というのは謎に満ちていて、科学者はワームホールの存在を示唆している」
「ワームホール?」
「空間と空間をつなぐ穴だな。そこを通れば一瞬で別の場所にワープできるそうだ」
「へえ」
「もしそれが実在すれば、人が足を伸ばせる距離に際限はなくなる。人は歩いて宇宙の果てにだって行けるかもしれない」
「眉唾な話ですね」
「まあ、あくまで可能性の話だ」


38
「ここでまた地球に戻ってみる。地球一周は約4万km。頑張れば3、4年くらいで歩ける距離だ」
「はあ」
「日本からアメリカならたったの1万km。徒歩なら1年、飛行機なら10時間前後で行ける。すごく近い」
「それが言いたかったわけですか」
「いまはパンでさえ旅する時代だ。宇宙の果てまで行くことに比べれば、地球の中を歩き回ることくらい造作もない」


39
そんなことを話していると、いつのまにか1時間ほども時間が経過しているのに気がつきます。帰ります、と一言彼に告げ、バッグを肩にかけて立ち上がります。すると彼が後ろから声をかけてきました。
「ところで明日も来ていいかな?」
「だから私に断る必要はないでしょう」
「よかった。またお邪魔させてもらうことにするよ」
「はあ……そうですか」


40
……

 あんたは本当に天使なのか、そう聞くと少年はそうだ、と即答する。
「へえ、天使ね。そいつはすごいや。なら、そいつを証明して見せてよ」
「証明……ですか」
「そ。試しに私がこれから何をしようとしてるのかとか当ててみなよ」
「天使だからと言って、むやみやたらと人の未来を予知できる訳でもないんですがね」
 そりゃそうだろう。未来を予知できる人間なんているはずないのだから。けれど、そんなわかりきった答えに興味はない。わたしはこの少年をさっさと追っ払って早く駅に向かわなければならなかった。


41
「あっそ。まあいいや。どうせはなから期待してなかったから」
「む。失礼な物言いですね」
「その言葉そのまま返すよ。あんたみたいながきんちょが出歩いていていいような時間じゃないんだ、さっさとお家に帰りな」
「その言葉そのままお返しします。あなただって未成年でしょう。こんな時間に何してるんです?」


42
少年の動じない物言いに少しぎくっとしながらも、わたしは表面上努めて平静を保ちつつ言い返す。
「……わたしは二十歳だよ。ちょっと散歩がてらコンビニに行くつもりだったんだ。あんたこそ何してんのさ」
 すると少年は一度視線を虚空へやって、少し間を開けてから、改めてわたしに向き合って口を開いた。
「自サツ」
 その瞬間、まるで時間が止まったかのように感じた。わたしは無意識のうちに息を飲み込んでいた。
「……をしようとしている人を探していたんです」
 少年の視線はまっすぐわたしに向けられている。わたしは思わず視線を逸らしてしまっていた。

……


43
その翌日もやはり彼はやってきました。
「やあ、元気かい?」
「ぼちぼちです」
 相変わらず彼はへらへらとした調子で、臆面もなく私に話しかけてきます。
「はい」
「なんです?」
「サンドイッチ、それから、おいしいと話題の駅前のプリン」


45
彼は昨日と同様に、食べ物を持ってきました。
「今度はプリンですか」
「嫌いだったかな」
「嫌いではないですが……」
「僕はいま他人にプリンをあげたくてあげたくてしかたがなくなってしまう病に……」
「はいはい、わかりました、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 私が受け取ると、彼はやはり嬉しそうに顔をほころばせます。


47
「また景色ですか?」
「うん。あと君と話しに来た」
「楽しくもないでしょうに」
「いや、楽しいよ」
「世の中には変な人がいるもんですね」
「世の中にはいろんな人がいる」


48
彼は夜景を眺めながらサンドイッチをもさもさと食べます。私もその隣でサンドイッチをもさもさと食べます。
「またなにかくだらない話ですか?」
「そうだな、また何かくだらない話をしようか」
「好きですね」
「ああ、くだらない話が好きなんだ」
「今日はなんの話ですか?」
「そうだな、なんの話をしようか」


49
彼は少し考え込んだあと、話を切り出します。
「突然だが、君はお金が好きか?」
「まあ、人並みに」
「じゃあこんな話はどうだろう。たとえばこんな銀行がある。その銀行は毎朝君の口座に86400ドル振り込んでくれるが、その日が終わると君の口座の残高は0になる。君が使おうと使うまいと、毎朝お金は振り込まれ、そして0になる」


50
「ずいぶん便利な銀行ですね」
「まあ、たしかに。さて、もしこんな銀行が本当にあったとする。大抵の人は残高がなくなる前に全額引き出そうとするんじゃないだろうか」
「ええ、まあ、そうするかもしれません」
「ばかばかしいと思うかもしれないが、こんな銀行は存在する」
「……?」
「この銀行とはつまり時間のことなのさ」
「時間、ですか」


51
「そう。人は誰しも毎日86400秒という時間を平等に与えられている。その限られた時間をどう使うか、あるいは使わないのかは個人に委ねられている。限られた時間は決して先送りにすることができない」
「ああ、だから時間は無駄にするなと」
「まあ、そういうことだ」


53
そこで私はふと思ったことを口にします。
「でも実際、毎日毎日そんな大金を手に入れていたらお金の価値がわからなくなってくると思いますね」
 すると彼は笑って言います。
「たしかに、だから時間の価値がわからなくなってしまう人も多いんだろう」
 その言い方に私は少しむっとして、
「それは私へのあてつけですか」
 そう言うと、彼は少し低い声の調子で言います。
「いや、僕自身のことさ」
「……そうですか」
 私からは彼の表情はよく見えませんでした。


54
「だが逆にこういう考え方もある。『珠玉の時間を無為に過ごさないようにと、注意を受けたことがあるだろう。そうなのだが、無為に過ごすからこそ珠玉の時間となるときもある』」
「?」
「つまり、無駄に過ごしたように思う時間のほうが、その人にとってかけがえのない時間だったりすることもある、ということだ」
「誰の言葉ですか?」
「ピーターパンの作者」
「へえ」


56
「まあ結局、時間の使い方なんて人それぞれで、他人様からとやかく言われるようなものではないと、僕は思うんだが」
「身も蓋もないですね」
「哲学や思想なんてそんなものだろう」
「そうですかね」


57
そうして話していると、また1時間ほども時間が経っていることに気づきます。私は彼に一言言って立ち上がります。そして彼はまた言うのでした。
「明日も来ていいかい?」
「だから私に……いえ、もういいです」
「よかった。じゃあまた明日」
「勝手にしてください」


59
……

「一体なんのことだか」
 わたしは精一杯強がっては見せたが、今の一瞬のうちにその少年が、何か得体の知れないものに変わってしまったように感じたのだった。そして少年は淡々と続ける。
「あなたの両親はとても厳格で計画的な人なんですね。いや、完璧主義と言った方が的確ですかね。
あなたには妹が一人いますね。そしてあなたはその妹をとても大切に思っています。
……ああ、そういうことですか。自サツの遠因としてはその妹が悩みの種というところですかね。妹のせい、いや、妹のためというべきか」


60
少年は演劇の台本でも読むかのようにすらすらと言葉を吐き出す。その様子にぞっとするような寒気を感じながら、恐る恐る尋ねた。
「あんたいったい何者?」
「天使です」
「どこまでわかるの?」
「さあ、大したことはわかりません。人間の心というのは複雑怪奇ですからね。強いて言うなら、もしさっきぼくが話しかけなければ、おそらくあなたは23時54分にそこの駅を通過する特急電車に飛び込んで氏んでいただろう、ということくらいはわかりますよ」


61
それは常識的には考えられない話だった。だが、そこまで聞くと、もうその少年の言葉を受け入れざるを得ないような気分になっていた。


62
「あんた……いや君はどうしてわたしの前に現れたの?もしかして自サツを止めるため?」
「そのつもりでした」
「でした?」
「ええ。お会いしてわかりましたが、あなたはもう何をしても止められないようですね」
「すごいや。そんなことまでわかるんだ」
「ええ。今日止めたところで、あなたは明日氏にます。いくら引き伸ばしたところで、あなたの決意が揺らぐ気配はありませんね」


63
わたしの疑念はもう確信に変わっていた。そうするとわたしの頭には別の疑問が浮かんでくる。
「君の目的はなに?」
 わたしが尋ねると、少年は即答した。
「人助けです」

……


64
今日も彼はやってきました。
「いい天気だね」
「そうですね」
 はい、と言って、彼はいつものように袋を差し出します。
「今日もですか」
「うん。ホットドッグとシュークリーム。それからオレンジジュース。食べられないものはない?」
 私はいつもどおり受け取ります。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「どういたしまして」


66
彼は私の隣に座ります。そしていつものように話し始めました。
「昨日は一日の時間についての話をしたね」
「そうですね」
「今日は一生の時間についての話をしようか」
「一生」
「そう。一生」


68
「人の一生ってどれくらいだと思う?」
「どのくらいって、たしか80年くらいでしたっけ」
「だいたいそうだね。平成27年度時点で日本人の平均寿命は男性が80.79年、女性が87.05年。平均するとおよそ84年」
「へえ」
「月数にすればおよそ1000ヵ月、日数にすればおよそ3万日、時間にするとおよそ70万時間、秒数なら26億秒ほどになる」
「26億秒ですか」


69
「こうしてみると膨大な時間に見えなくもない」
「そうですね」
「しかし人はその一生のうち3年間をトイレで過ごすのだそうだ」
「それはまた」
「馬鹿げた話だろう?」
「ええ」


70
「また25年間を寝て過ごすそうだ」
「まるで白雪姫みたいですね」
「その後一生眠らなくていいというなら、僕は先に25年間眠ってしまいたいな」
「きっと浦島太郎の気分を味わうんじゃないですか」
「ん、たしかにそうかもしれない」


71
「こうして換算してみると、一生のうちに自由に使える時間なんて50年くらいか」
「そんなものですか」
「日々の何気ない行為ひとつとっても、一生分ともなると膨大な時間をつかっていることがわかる」
「ちりも積もればというやつですね」


72
「さて、そこで問題だ。人は一生のうちにどのくらいの時間笑っているか知っているかい?」
「さあ、5年とか10年とかですかね」
「実はたったの22時間3分なのだそうだ」
「へえ」
「新聞放送学博士号を取得しているイ・ユンソク氏の研究によると、子供は一日平均400回笑うのに対し、大人は平均6回しか笑わない。一生分に換算しても合計時間は1日に満たないんだそうだ。人が一生のうちに笑っていられる時間は存外に短い」
「それは意外ですね」


74
「笑いはナチュラルキラー細胞、エンドルフィン、ク",口ブリンA、インターロイキン6、エンケファリンなどの免疫物質やホルモンを生成、活性化させるんだそうだ。つまり笑うことは健康につながる」
「笑うことが苦手な人はそもそも生きるのに向いてないんですね」
「苦手なのかい?」
「ええ、まあ」
「苦手だと思っていることでも、案外やってみると慣れてきたりするものだと思うよ」
「そう簡単な話でもないと思いますが」


76
すると、彼は突然上の方を指差しします。
「あ!」
 私はそれにつられてそちらを見ました。しかし彼の指差す方向には夜空が広がっているばかりです。
「なんですか?」
 彼に視線を戻し、聞き返すと、彼は自分の手で顔をひしゃげていました。
「……なんですか?」


77
「変な顔でもしたら笑わないかなと思ったんだけど」
「はあ」
「そう簡単な話でもなかったみたいだ」
「だから言ったじゃないですか……でもまあ、ありがとうございます」
「あ、いま少し笑ってくれたね」
 私は慌てて口元を隠します。
「……」
 彼の満足そうな顔が気に入らなくて、私はそっぽを向きました。


79
「あ、そろそろ帰らないとかな」
 彼の言葉で私は腕時計を見ます。彼は立ち上がりつつ言います。
「また明日も来るよ」
「どうぞご自由に」
「じゃあまた明日」
「……また」


80
……

「は?」
 少年のあっけらかんとした答えに、わたしは思わず聞き返してしまう。
「だから、人助けですよ」
 少年は、同じ答えを繰り返す。


81
「……はっ……はっははははは……あははははははは!」
 そのさも当然というような物言いがあまりに堂々としていて、しかしそれがあまりに少年の姿に似つかわしくないものだから、わたしは笑いを堪えることができなかった。
「可笑しいですか?」
「ああ、いや、あはは、本当に、まるで天使みたいだなって思ってさ」
「まるで、も何も、本当に天使なんですよ」
 そうやって拗ねるような顔をすると、しかし彼はあまりに人間らしく見えるのだった。


82
そこでまたふと頭に浮かんで来た別の疑問を尋ねてみた。
「じゃあ、なんでわたしが選ばれたわけ?天使とはいってもさすがに自サツする人間をみんな救えるような万能じゃないでしょ?現にわたしを救うことは無理なんだ」
「そうですね。氏に行く人を皆救える訳ではないです」
「なら、どうしてわたしなの?」
「それは、まあ、偶然ですかね」


83
「偶然……?神様の気まぐれってやつ?」
「いや、神様なんてのがいるのかどうかは知りませんけれど、ぼくは趣味で天使をしているので。だからぼくの気まぐれとでも言った方が……」
「あっはっはっはっは!」
 わたしはまた堪えることができずに吹き出してしまった。


84
「ああ、愉快だよ。いやあ、氏ぬ前にこんな愉快ながきんちょに出会えるとは思わなかった」
「がきんちょではなく天使ですよ」
「ああ、そうだ、天使だね。がきんちょの天使だ」
 わたしがくつくつと笑いを押しころしながら軽口を叩くと、少年は極めて不服そうに?を膨らませた。しかし彼の言葉とは裏腹に、その姿はやはりとても人間らしい。


85
そこで改めてわたしは確信した。確かにわたしはもうすぐ氏ぬのだと。こんな不可思議で愉快なことに出会ったことは今まで一度だってなかった。だからこれはきっと、氏にゆくわたしに対する、神様からの餞別ってやつなんだろう。

……


87
私は腕時計を見て、少し遅くなってしまったかな、と思いつつ階段を上ります。上りきった先には錆びた鉄製のドア。ノブを捻りながら開け放ちます。
「……あ」
 見慣れた屋上に、彼は先に来ていました。


88
彼は少しだけ驚いたように振り返って、口を半開きにしていました。
「来ないのかと思ったよ」
「びっくりしました?」
「そうだな、ちょっと心臓が口から零れ落ちそうになったくらいだ、大したことはない」
「おおげさですね」
「おおげさな物言いをしないと氏んでしまう病なんだ」
「たくさん持病をお持ちなんですね」


89
「ところで、今日はどうかしたのかい?」
 いつも私が先に来ていたので、彼は私が遅れてきた理由が気になるようでした。しかし私はそれに答えず、手に持った紙箱を差し出します。
「どうぞ」
「え?」
「駅前のおいしいと話題のプリンよりおいしい、と私の中で絶賛されているプリンです」


90
彼はきょとんとした顔で紙箱を見ています。
「僕にくれるのかい?」
「あなたの病気がうつってしまったんです」
「なるほど。ありがとう」
「……どういたしまして」
 彼もやはり何か買ってきていたようで、脇に下げていた袋を私に差し出してきました。
「じゃあこれ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」


91
私は彼の隣に座ります。
「今日はなんの話ですか?」
「今日は君の話がしたい」
「私の話……ですか」
「そう」
「私はあまりしたくないのですが」
「単刀直入に聞きたい。君はどうして自サツしようと思ったんだ?」
 彼はいつものように回りくどい言い方をしません。私は思わず視線を下げてしまいました。


92
「……自サツしようとしているようにみえました?」
「ビルの屋上で縁に座っている。それも毎日」
「空を眺めるのが好きなんです」
「はじめて会ったとき、靴を揃えて置いていたのは?」
「そういう趣味かもしれません」
「遺言書も?」
「それは万一ここから足を滑らせてしまったときのための保険じゃないですかね」
「そうかい」
「そうです」


93
「では、話を変えよう。いつも君はここでなにを?」
「音楽をきいたり、本を読んだり、物思いにふけったりですかね。最近はここに来る変な男とくだらない話をすることが多いですが」
 私は鞄の中からポータブルCDプレイヤーとCDを取り出してみせます。


94
「こういうのは久しぶりに見た気がする」
「けっこう便利なもんですよ」
「サティか」
「ええ。流れる雲を眺めながらジムノペディを聞くのが好きなんです」
「いい趣味をしてる」


96
「あとは景色を見ています」
「景色」
「私はここから見える景色が好きなんです」
「僕も好きだ」
「ええ、聞きました」
「どういうところが好きなんだい?」
 彼は興味深そうにこちらを見ます。私は少し考え込んで答えます。
「んー、人や人がつくったものがたくさん見えるところですかね」
「人や人がつくったもの?」


98
「ここから見るとたくさんのものが見えるじゃないですか。ビルに道路に信号機や自動販売機」
「駅や公園、道路脇のベンチも見える」
「それから、たくさんの人」
「うん」


99
「こうして見ているとですね、世界は広大だなーと思うわけですよ」
「うん」
「それに比べて自分はとても小さくて、矮小だなーと思うわけですよ」
「うん」
「そういうことを考えていると、ときどき寂しくなって、そういう寂しい気分に浸っているのが好きなんです」


100
彼はさらに聞いてきます。
「自分が小さな存在であることが嫌かい?」
「どうなんでしょうね。ときどき自分になにもできないことが嫌になることもありますけど」
「うん」
「でも、むしろ、自分がもしいなくなっても、世界は変わらず回り続けるんだろうなって、そういう安心感を感じることの方が多い気がします。きっと私がいなくなったとして、世界はなにも変わらない」


101
私の返答を最後まで聞くと、彼はただ黙ったまま夜空を眺めていました。私も彼の質問にはすべて答えたので、黙って夜空を眺めます。今日の夜空は透き通っていて、都会の空にしては星がやけに輝いているように見えました。


102
少しして彼はまた口を開きます。
「その気持ちは少しだけわかる気がするよ」
「そうですか」
「君がいなくても世界は回り続ける、それは確かにその通りだろうね」
「当たり前ですね」
「しかし、君がいなくなって悲しむ人は必ずいるし、君を必要とする人もきっと世界のどこかにはいると思うよ」


103
「どうしてそう言えるんですか?」
「……なんとなく、かな」
「めずらしく適当なことを言うんですね。慰めならもっとうまくやってくださいよ」
「慰めじゃない、いや、慰めなのかな。そうだな、僕が君にこんなことを言うのは、僕は僕自身、この根拠のない慰めを信じているからだ」
「自分を必要とする人がいるということを、ですか?」
「そう。自分自身への慰めだね」
「……そうですか」


104
「僕はこういうふうに思っている。人は自分で思うほど世界に影響を与えられないけれど、自分で思うより世界に必要とされている」
「矛盾してませんか?」
「いや、していないよ」
「残念ながら、同意しかねます」
「そうか」


105
彼が口を閉じると、私はもう少しだけ彼に自分の気持ちをさらけ出したい気分になりました。
「さっきはああ言いましたが、正確でなかったので、訂正します」
「うん?」
「自サツするほどの覚悟はないんです。ただ、ときどきすごく氏んでしまいたくなります」


106
「私が氏んだところで迷惑がかかる人はいないんです。親は、きっと喜ぶでしょうね」
「……」
「もし、氏んでしまえば、わずらわしいことすべてがどうでも良くなって、少なくとも、こうして悩む必要だってなくなるんです」
「……そうかもしれないな」
「ときどきですよ。いつも思っているわけではないんです」
「うん。わかってる」


107
腕時計を見ると、もう帰らなくてはいけない時間になっていました。いつものように私は立ち上がって、帰ります、と伝えます。
「また明日も来るよ」
「はい」
「じゃあまた明日」
「また明日」


108
私はこの奇妙な雑談を日課として受け入れ始めていることに気がついていました。さらに言えば、彼と話している時間を楽しいと感じているのかもしれないということにも。ただ、私はそれを認めるわけにはいきませんでした。
 夜風が右手首のミサンガを撫でて、否が応でもその存在を知らしめてくるのです。


113
……

「少年」
「なんですか?」
「ありがとうね」
 すると彼は意表を突かれたような顔をして、それから少し寂しげな表情になって俯いた。
「……すみません」
「君が謝るようなことじゃない。わたしは望んで命を絶つんだ」


114
「ぼくには人を救う力があります。でもそれは万能ではありません。救えない人もたくさんいます。もしぼくがもっとがんばっていれば救えたかもしれない人はこれまでにもたくさんいました。ぼくはときどき自分の無力さを呪います」
「君は抱え込み過ぎじゃないのかい?」
「ぼくにできることはそれくらいです」
「人は自分の命にしか責任を持てない。自分の命は自分のものだけど、他の人の命をどうこうする義務なんて本来誰にもないんだ。天使がどうかは知らないけどね」
「そうかもしれませんね」
 わたしの言葉に少年はうつむいて、苦しそうに言った。


115
彼は再び顔をあげると、さっきよりいくらか明るい声音で言う。
「せめて、何か最後の願いくらい聞き届けますよ」
「お、なんだか天使っぽいね」
「だから天使ですってば」
「ごめんごめん。……そうだなぁ、願いかぁ。それはなんでも叶えてくれるのかい?」
「なんでも、とはいきませんけれど、ぼくの力の及ぶ範囲で尽力しますよ」
「じゃあ、わたしの願いは一つだ」
「なんですか?」
「わたしの願いは……」

……


116
彼はいつもと同じ時間に屋上にやってきます。
「やあ」
「どうも」
「これどうぞ」
「ありがとうございます。どうぞ」
「ありがとう」


117
彼は私の隣に座ります。私たちはお互いに買ってきたものを半分ずつ食べながら、夜空を眺めます。今日の夜空はやけに曇っていました。めずらしく、私も彼も何も喋りません。それでも、その沈黙は苦ではありませんでした。


119
「今日は……」
 しばらくして、私の口から自然と言葉が漏れました。
「ん?」
「今日は、あなたの話を聞かせてください」
 私は彼のことをなにも知りません。私は彼のことを知りたいと思いました。彼は少しだけ考える素振りを見せてから言います。
「うん。僕もちょうど、僕の話をしたいと思っていたところなんだ」


120
そして、彼はこう切り出しました。
「とりあえず、僕の知り合いの話をしてもいいかな?」
「知り合い、ですか?」
「うん、これは僕の知り合いが出会ったちょっと不思議な出来事の話なんだけどね」
 彼はいつになく神妙な面持ちで、ゆっくりと口を開きました。


121
「そいつはどうしようもないろくでなしでね。バンド活動に明け暮れて高校を中退した。両親の反対も押し切って上京して、しかし結局、花開くことはなかった。馬鹿な話さ。
そんなことをしているうちに父親がぽっくり氏んでしまった。親の氏に目にも立ち会えず、母親からは勘当され、そんな人生を後悔したそいつはとうとう氏ぬことを決心した」


122
「そいつが氏ぬ準備をして、さあ氏のうと橋の欄干に足をかけたときにね、そいつの後ろに変な少年が通りかかったんだ。その少年は臆面もなくそいつに話しかけた。もし氏のうとしているなら、ちょっと協力してくれないかって」


124
「そいつは突然のことに面食らいながらも、どうせ捨てる命だと考え、とりあえず少年の話を聞くことにした。少年はこういった。いまあなたが持っている何か大切なものとこれを交換してほしい。そう言って少年が差し出したのは古い砂時計だった」


127
「なにを言われるかと思って身構えていたそいつはずいぶんと拍子抜けした。しかし一旦落ち着くと、どうせ捨てる命だからと考え、腕につけていたミサンガを少年に渡した。夢を叶えるまでつけていようと、ずっと身につけていたものだ。
少年は礼を言って受け取ると、続けてこんなことを言った。せっかくだからその砂時計の砂が落ちきるまで待ってみてください、あなたの人生に大きな転機が訪れるでしょう。そして少年は立ち去った。そいつの手元には古い砂時計だけが残った」


130
「そいつは不思議に思いながらも、毒を食らわば皿までという気持ちで、言われたように待ってみた。すると砂時計が落ちきる寸前で携帯が鳴りだした。
かけてきたのは母親だった。出るべきかわずか迷ったが、どうせ捨てる命だ、最後に母親の恨み言で幕を閉じるのも悪くない、と携帯を手に取った」


131
「しかし予想に反して母親の声音は穏やかだった。このあいだは辛く当たってすまなかった。父ちゃんが氏んで気が動転していた。虫の知らせがあって嫌な予感がして、それで電話を掛けた。お前はどこにいようと私の息子だよと」


132
「母親の言葉を聞いているうちに、そいつはとうとう自サツする気がそがれてしまった。あの少年に気まぐれさえ起こしていなければ、いまごろ川底で安らかに眠れていたものを、と恨みがましく思った。
しかし、どうせいつかは捨てる命なら、せっかく拾ったこの幸運に身を任せてみるのもいいかもしれないと思い返した」


133
「そいつは引き返して、まとめた荷物をほどいて、遺言書を破り捨てた。そいつはそこから真面目に人生をやり直すことを決心した」


134
彼は話し終えると、静かに息をつきます。
「本当の話なんですか?」
 私が聞くと、彼は落ち着いた口調で答えます。
「ああ、誓って本当だ。普通、信じてはもらえないだろうが」
 私は一人納得しました。
「……そういうことですか」


135
そして今度は私の話をすることにしました。
「私の知り合いの話をしてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
「実は私の知り合いにも不思議な経験をした人がいるんです」


136
「その子は双子の妹でした。明るい姉とは対照的に、暗く内向的な子でした。不器用で運動音痴で勉強もできない、まさに落ちこぼれというやつです。その子はある時、自分が生まれる予定のなかった子だということを知ってしまいます。
その子の親は完璧主義者で、その子は、親にとって計算違いの子だったんですね。それからというものその子は受験や就職に立て続けに失敗します。そして唯一優しくしてくれた姉にも先立たれ、自サツを決心しました」


137
「自サツを決めてすぐ、必要なものをホームセンターへ買いに行きました。準備を万全にして、さて、氏のうと意気込んで帰る途中、その子は突然うしろから声をかけられました。
振り返るとそこには見知らぬ少年がいて、こんなことを言い出しました。失礼ですが、あなたはこれから自サツしようとしていませんか」


138
「見透かされたような言いように、その子は少し動揺しましたが、よくよく考えてみればレジ袋の中身から首吊りを連想してもおかしくはありません。面倒に巻き込まれたくなかったその子は、違うとひとこと答えました。
すると少年は続けてこう言います。では、もし良かったらこのミサンガと、あなたの持っている何か大切なものを交換してくれませんか」


139
「少年の意図がつかめないその子は混乱しますが、ここで粘られるのは嫌だったので、なにか適当なものを渡して追っ払ってしまおうと考えました。そこでお守りとして大切にしていたキーホルダーのことを思い出し、それを少年に渡しました。
大切なものでしたが、その子にとってはもう不要なものです。少年は礼を言って受け取り、代わりにその子にミサンガを渡しました。そしてこう言いました。それを付けていればいつかきっと幸運が訪れますよ。そして少年は立ち去りました」


141
「さて、ようやくアパートに帰ると、ちょうど郵便局員さんが部屋の前にいました。そして、ついでだからと一通の手紙を直接手渡されました。差出人を見ると、姉からのものでした。その子は慌てて手紙を開けました。内容はおよそこんな感じでした」


142
「突然自サツしてごめん。周囲の期待が私には辛かった。自サツした人間がこんなことを言うのは自分勝手に思われるかもしれないけど、あなたには生きてほしい。私はあなたを信じている」


146
「手紙を読み終えると、その子は氏ぬ決心が揺らいでしまいました。結局のところ本当に自サツするだけの覚悟なんてもともとなかったのかもしれません。それからというもの、その子はずっと氏にたいと思いながらも氏にきれずに、ゆらゆらと中途半端な生活を送り続けています」


150
私は話し終わって一息つくと、手首に巻いたミサンガを解きます。そしてそれを彼に差し出します。
「ミサンガ、お返ししますね」
「知り合いのものだろう?」
「知り合いから受け取ったということにしておきます」
「じゃあ君にあげるよ」
「知り合いのものでしょう?」
「知り合いがそう言っていたということにしておくよ」
「では、ありがたくいただいておきます」
 彼の言葉に甘えて、私はミサンガを再び手首に巻き付けます。


151
「このミサンガが切れるころには、決心がつくだろうなんて思っていたんですけどね」
 手首のミサンガを眺めながら、ぽつりとつぶやきます。返答を求めていたわけではありませんでしたが、彼は皮肉げに笑って言います。
「残念だが、それは無理な話だ」
「どういうことですか?」
「それは小さいときに母がつくってくれたものなんだが、母はミサンガというものをあまり知らなくてね。せっかくだから長く使えるようにと特別丈夫に作ってくれた。だから、そのミサンガはハサミでも使わないと切れない」
「いつまでも決心がつかないわけですね」
「そういうことだ」


154
話している間にふと気になって彼に尋ねます。
「ところでミサンガにはいつ気がついたんですか?」
「最初に話しかける前から。僕の秘密基地に知らない人がいて、その人があの時のミサンガをつけている。なにかの運命だと思ったよ。ミサンガが僕のものという確証はなかったけどね」
「そんなこともあるんですね」


156
「人生万事塞翁が馬。なにが起きるかわからない」
「……」
「生きていれば、いいことも悪いことも起きるけれど、たいていのことはなんだかんだなんとかなったりするものだよ」
「……そうかも、しれませんね」
 彼のその言葉を聞いたとき、私の中にわだかまっていた何かがじんわりと溶けていくような、そんな気がしました。


157
「あの」
「なんだい?」
「明日もここに来ますか?」
 私は、そこに期待が含まれていることをもう自覚していました。当然返ってくるだろう肯定を敢えて聞きたいと思いました。しかし、彼の返答は私の予想に反していました。


160
「ごめん、明日からは来られないんだ」
「え?」
 その瞬間、私は目の前が真っ暗になるような気分になりました。
「1ヶ月間こっちの部署で働けと言われてこっちに来ていたんだけど、それが今日までなんだ」
「……」
「明日からはこの屋上は君ひとりのものになる。この景色もひとりじめだ」
「……そうですか」


162
「もう君は大丈夫かい?」
「それはどういう意味ですか?」
「つまり……」
「また自サツしようとするんじゃないかって?」
「まあ、うん」
「どうでしょうね……いつ氏にたくなるのかなんて、私にもわかりませんし」
 まるで駄々をこねているみたいな言い様に我ながら嫌気が差します。しかし、もうなんと答えていいのか、どう答えるべきかなんて考えられませんでした。


163
彼は私の返答を聞いて、また考え込むような素振りを見せます。そして明るい声音で言います。
「じゃあ、こうしよう」
「なんですか?」
「最後にとっておきの雑学を君に教えよう」


164
「また雑学ですか」
「そう渋い顔をしないで」
「もう聞き飽きましたよ」
「これはとっておきなんだ」
「……わかりました。最後ですからね」
「よしきた」
 いまさら何を言うつもりだろう。私は恨みがましい視線を彼に向けます。しかし、彼はいつものごとくへらへらと笑って話を始めるのでした。


165
「まず、君は人が恋に落ちるのにかかる時間がどれくらいか知っているかい?」
「いえ、知りません」
「およそ0.2秒だそうだ。人が恋に落ちた瞬間、脳の12の領域に複数のホルモンが行き渡り多幸感を引きおこすのだが、そのホルモンは0.2秒間かけて脳内を駆け巡るらしい」
「へえ」


166
「例えば君がそこから身を投げたとする。ここは15階建てのビルの屋上で、高さはおよそ50m。自由落下として計算し、地面に到達するまで約3秒。
もし君が飛び降りた瞬間に、幸運にもあそこのビルの窓際にとても好みの男性を見つけて一目惚れしたとして、見つけてから恋に落ちるまで0.2秒。残りの2.8秒間は幸福な気持ちで余生を送れる可能性がある」
「それなら一生懸命ビルの窓際を探さないとですね」


167
「しかし、こうも考えられる。日本女性の平均寿命がだいたい87年。君は見たところ20代半ばくらいだろうから、寿命まで生きればこれからおよそ60年ほどの年月を生きることができる。
秒数にしておよそ19億秒。もし君がいまこの瞬間に偶然恋をしたとすれば、残りの18億9999万9999.8秒間は幸福な余生を送れる可能性がある」
「もう28になりますが、なるほど一理ありますね」


168
そして、彼は深く息を吸い込むと、こう言いました。
「というわけで提案なのだが、試しに僕に恋してみるというのはどうだろう。もしかしたら君の18億9999万9999.8秒間を僕が幸せにできるかもしれない」
 私と彼の間に沈黙が流れます。
 少しして、私は我に返り、今の提案の意味を吟味しました。そしてどう答えるべきか、そのとき私は咄嗟に妙案を思いついたのです。


169
「……最初の質問に戻りましょう」
「最初の質問?」
「あなたが最初に私に問いかけてきた質問です」
「『君はいま静止しているか?』」
「ええ、その通りです。私は静止していると答えました」
「そうだね」
「しかし、実はいま私の心臓はものすごいスピードで鼓動をうち、呼吸は荒くなり、頭の中は東奔西走しているのです」
「……えぇと」


171
彼の困っている顔を見ながら、ああ、いつも彼はこんな気持ちだったのかと気づきます。そして私は笑顔で彼にこう答えるのです。
「つまりですね、私はいま時速200kmの速度で恋に落ちています」


173
……

 少年はまっすぐこちらを見つめている。彼は私の願いをひとつ叶えてくれるという。私の願いは決まっていた。私は彼に自分の願いを伝える。
「わたしの妹を守ってやってほしい。あの子は強くもないくせにいつも強がって、弱いところを押し隠して、一人で生きようともがいて……馬鹿な妹なんだ。
きっとあのままじゃあ、あの子はいつか潰れてしまう。だからわたしはあの子を支えてくれるような素敵な人にいつか出会ってほしいと願ってる」
「はい」


176
「ついでに言うなら、その相手がイケメンで長身でスタイルが良くて、キザだけど真面目でそつなく仕事をこなせて、でも実は不器用でうまく自分の思いを言えなくて、照れ隠しに回りくどい言い方をしちゃうような、そんな素敵な人だったりするといいなぁ」
「……随分注文が多いですね」
「ごめんごめん、ちょっとした冗談だよ」
「冗談ですか」


177
「あ、そうだ。それから、もしどこかに、わたしみたいにうまく現実に折り合いがつけられない人がいてさ、その人がもし、心の底では助けを求めてたらさ、どうかそんな人たちのことを救ってあげてくれないかな」
「願いは一つだったのでは?」
「う……だめかな?」
「冗談ですよ。もとよりそのつもりです」


178
「そっかぁ……よかった……。でもまあ、わたしの願いなんて生まれてこのかた叶ったことないんだけどね。神頼みも仏頼みもうまくいった試しなんかなくってさ。君ならもしかして、と……まあ、ほら、どうせ最期なんだし、藁にでも天使にでも縋りたい気分なんだ。
あれだ、君が趣味で人助けしてるって言うからさ。ついででいいんだ。もしわたしの妹がわたしみたいな状況になってしまったら、何かのついでにでも、どうか……でも、うん、もし……いや違うな……そうじゃなくて……」
 わたしはそこで一度言葉を区切る。そして改めて少年をまっすぐ見つめ返して、一言だけはっきりと伝えた。


179
「どうか、叶えてください」


180
わたしは、自分の頬に熱い筋が走るのを感じた。いつのまにか視界がぼやけて、少年の姿が判然としなくなっていた。
「わかりました。確約はできませんが、精一杯あなたの妹を守ってみます」
「ありがとう……ございます……」
「いえ、気にしないでください。それから、あとあの、敬語で話されるのは慣れていないので、その、普通でいいですよ」
「……ありがとう」


181
それから、少年はこう続けた。
「では、そうですね、とりあえずあなたが大切にしているものを何か一ついただけますか?」
 わたしは服の裾で涙をぬぐいながら聞き返す。
「大切にしているもの?」


182
「ええ、なんでもいいですよ。例えば小さい頃からずっと持っているものとか、思い出深い品であるとか、どうしても捨てられないものだとか……」
 そう言われて、ずっと肌身離さず持っていた砂時計のことを思い出した。これは小学生の時に、あの子がプレゼントしてくれたものだ。もうぼろぼろに塗装も禿げてしまって、でも私にとっては何より大切なもの。


183
「これ、ぼろぼろだけど、こんなものでいいのかな……」
「ああ、そうそう。こういうものです。では、代わりにこれを差し上げます」
 そういうと、少年はわたしにぼろぼろのキーホルダーを差し出してきた。
「え?これは……?」
「まあ、お守りとでも思ってください。どう使うかはあなたにお任せします」


184
「……はぁ。でも今さらお守りなんて……」
 そう言いかけて顔をあげると、目の前にいたはずの少年はなぜか忽然と姿を消していた。わたしはしばし呆然として暗闇を眺めていたが、まあ、天使ならそんなこともあるかと納得した。
 それからわたしは改めて手の中のキーホルダーをみた。それは確かにそこにあって、さっきまでの出来事がただの妄想でないと言うことを裏付けていた。
 わたしはひとまず帰路についた。今日はもう機会を逃してしまったから。それから、氏ぬ前に少しだけやり残したことを思い出したから。


185
わたしは自分勝手に氏ぬけれど、あの子にくらいは本心を打ち明けておくべきだろうと考え直したのだ。家に帰ったら遺書くらいは書こう。それから、きっとこの『お守り』は、これから氏ぬ人間よりも、これからを生きる人間にふさわしい。
 これもやっぱりわたしの自分勝手なのだけど、あの子に少しだけ、わたしのわがままを残していこうと思った。
  ̄ ̄あの子には生きてほしい。
 もしそれがあの子にとってただの迷惑だったとしても構わない。わたしは、自分勝手だから。


186
いつのまにか、頰がほころんでいた。さよならまで、もう少しだけ。


187
おわりです。
課題が終わらないんで暇つぶしがてらちまちま書いてました。
もし読んでくださった方がいたらここにお礼申し上げます。
長々と読んでくださってありがとうございました。





引用元: 「君はいま静止しているか?」「はい?」