「あらゆる生あるものの目指すところは死である」というフロイトの言葉通りに、誰にでも平等にいつか必ず訪れる「死」。その先に何かがあるのか、それとも何もないのかは誰に分かりません。だからこそ人間は「死」を本能的に恐れているのかもしれません――(おうまがタイムズ)
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俺がいなくなるんだぞ
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◆2歳の娘が、独身時代に飼っていたペットだったと言いだした
皆さんは「前世」や「生まれ変わり」って信じますか?
発言小町に「2歳の子供が昔飼っていたペットだったと話し出した」という投稿が寄せられました。
ハンドルネーム「フェレットやったんか」さんは、2歳の女の子「ゆうちゃん」のお母さん。
ある日、歯磨きをしながらこんな話を始めたそうです。
「ゆうちゃんねえ、昔『もふぞう(仮名)』だったの。そして、ゆうちゃんになったの」
「カリカリの餌、美味おいしくなかったわあ」
「もふこ(もふぞうと同時期に飼っていたペット)は可愛かわいかったけど、怖かった。あまり一緒に遊ばなかった」
ハンドルネームの通り、「もふぞう」はフェレットで、トピ主さんが独身時代に飼っていたそうです。
娘のゆうちゃんにペットを飼っていたことを話したことはなく、「夫も知らない名前を突然話し出した娘にとてもびっくりしました」とつづっています。
さらに、飼っていた6匹のペットの写真を見せたところ、「ゆうちゃんこれだったの」と迷わずもふぞうを指さしたとか!
うーん、こんなこと、あるんですねえ。
発言小町では、お母さんのおなかにいたときのことや、生まれてくるときのことを話してくれたというエピソードのほか、“赤ちゃんになる前”のことを話してくれたという声も。
「家庭で相当辛つらいことがあって、子どもも言うことを聞かないときがあり腹がたつのと申し訳ないのとで『どうしてママなんか(こんなママ)のところに生まれてきたの!?』と泣いて言ってしまいました」とハンドルネーム「さらら」さん。
すると7歳の息子さんが、「若いママがやさしそうやったから」「◯◯ちゃん(下の子)と雲の上からママを見てて、(中略)自分が先に行くと言ってひゅーんと降りてきた。他にも子どもらがいたけど◯◯ちゃんとママのところに行こうって言って」と話してくれたそうです。
こうした話を信じるか信じないかは、あなた次第。でも「青い光」さんの言う通り、「幸せな奇跡」なのは間違いないですよね。
そして「雨降」さんが書いているように、「そっかあ、いいなあ。12月に19歳の愛猫を見送りました。あの子に会いたい。あの子が私のもとへ戻ってくれるのなら、どんな姿でもいいのに」と、うらやましく感じた人も多いのではないでしょうか。
「大好きなペットともう一度暮らしたい」。
そう願う皆さまに、幸せな奇跡が起こりますように。
写真と本文は関係ありません
読売新聞 2016年09月08日
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/plus/hnews/20160908-OYT8T50029.html?from=ytop_os2&seq=08
氏んだ後、人はどこへゆくのか──人類にとって「あの世」は常に興味・関心の的であり、宗教も、科学も、その問いに答えを出そうとしてきた。「あの世」について学ぶことで、生きることも、そして氏ぬことも、きっと少しだけ楽になるからだ。
実は「あの世」にまつわる言説の多くについても、取材を進めると「生きていく中での苦悩」や「死への恐怖」を和らげる意味を持つことがわかってきた。
臨済宗の僧侶で作家の玄侑宗久氏によれば、日本人が「死」の概念を持つようになったのは、仏教伝来以降のことだという。
「『万葉集』や『古事記』などには『氏ぬ』という言葉はなく、『避(さ)る』という言葉を使っています。“どこかに行く”というイメージで、『死』とはちょっと違うでしょう。6世紀半ばに仏教が火葬の風習とともに入ってきて初めて、“体が灰になる=死”という概念に触れたように思います。ポイントは、当初日本に伝来した仏教は、中国で『輪廻』の概念を外されたものだったことです」
「輪廻」は、氏んでもこの世のどこかで次の生が始まるという概念だ。だから体を取っておく必要がなく、火葬しても構わないことになる。後に、輪廻の考え方も日本に伝わることになるが、当初は伝来の過程で輪廻という概念が外れ、火葬という形だけが残っていたという。つまり「次の生に対する保証が何もないのに、体は燃やされてしまう」(玄侑氏)ことになったのだ。
「このため、平安初期の説話集『日本霊異記』などを読むと、『頼むから9日間は燃やさないでくれ』とか『腐敗が進んで諦めがつくまでそのまま置いておいてくれ』という貴族がいっぱいいたんです。そういう状況下に、救世主のように現われたのが浄土教でした」(玄侑氏)
浄土教では氏ぬことは「往生」、すなわち浄土に「往って生きる」ことを意味する。
「この考えは、『万葉集』や『古事記』の『避る』という表現にピッタリと合う。『ああ、氏んでも大丈夫なんだ』と人々が思ったことで、浄土教は燎原の火の勢いで広がっていったんです」(同前)
死後どうなるかという“ビジョン”が人々を救ったという解説だ。さらに玄侑氏は「あの世」という表現が定着していることにも着目する。
「『あの世』という言葉は仏教用語ではありません。日本人にとっての死後の世界は、どうも“昔いた懐かしい場所”という感覚のようなんです。『あの世』といった時に、誰も『どの世?』とは聞かないでしょう? 『あ~、あれね』という暗黙の了解が前提にある気がします。浄土教における浄土は“十万億土の彼方”といわれますが、日本人にとっては“身近な自然の奥のほう”というようなイメージが形づくられてきたのではないでしょうか」
※週刊ポスト2016年9月2日号
http://www.news-postseven.com/archives/20160826_440576.html